〒634-0804
奈良県橿原市内膳町1-1-19
セレーノビル2階
なら法律事務所
近鉄 大和八木駅 から
徒歩3分
☎ 0744-20-2335
業務時間
【平日】8:50~19:00
【土曜】9:00~12:00
2024年
10月
29日
火
本日は、事務局の担当日です。
まだ秋らしくない気温の日がありますが、野山は次第に秋らしくなってきました。
橿原市では、この時期、藤原京跡で、コスモスが広く咲き誇っています。
天気の良い日には、お弁当とレジャーマットをもって藤原京跡へ出かけると、とても癒やされますよ。
現在、藤原京跡は飛鳥と共に、世界遺産への登録を目指していて、先月には、国内の推薦候補になりました。
藤原京は飛鳥時代の日本の首都であり、多くの異国人が居て、おそらく、中央アジアの草原のパオの中で生まれた美味な固形物であった蘇が、はるかシルクロードの道を通り、飛鳥の都へ伝わり、日本のチーズの始まりと言われている「蘇(そ)」が作られていたと聞きました。
現在では藤原京跡の西で天香具山の麓に在る「みるく工房飛鳥」さんでは、「蘇(そ)」を復元した乳製品が販売されています。
その所以から、今、橿原市の観光サイトでは、「かしはらチーズグルメ」というページがあり、チーズと奈良県産食材を組み合わせた新グルメを紹介されています。
( https://kashihara-kanko.or.jp/cheesegourmet/ )
今迄に、なら法律事務所のホームページで紹介したお店のスィーツも掲載されています。
近鉄八木駅から一番近いお店ではやさい菓子工房 cocoai(ココアイ)の蜜芋バスクチーズケーキがあります。
他にも新しい食べ物が25点載っていますので、是非ご覧になって、身近で食欲の秋を満喫してみてください。
2024年
10月
28日
月
「いやしくも日本広しといえども、こんな変なことを研究しているのは俺一人だ」というような態度の悪さが知的な緊張を持続するためには必要なんです。
2024年10月11日の内田樹さんの論考「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その2)をご紹介する。
どおぞ。
さっきも控え室で、菅間校長と話していましたけれども、今の社会は全部そうなんです。とにかくたいへんな勢いで変化している。その急激な変化に「キャッチアップしろ」という圧力がかかる。それを受け止める学校側も、とにかく社会の変化についていかなきゃいけないと思って、必死になっている。「何のために変化しなければいけないのか」という根本の問いを忘れて、とにかく時代がこう変わっているんだから、テクノロジーがこう進化しているんだから、政治過程や市場の仕組みがこう変わっているんだから、それに合わせて教育も変わらなければいけないと必死になっている。そういうオブセッションが教育現場にも強くかかっています。
文科省に言わせると、それでも文科省が防波堤になって、産業界や政治からの「教育を変えろ」という圧力に抵抗しているんだそうです。たしかに防波堤にはなってくれているのかも知れませんが、現場には必ず「文科省経由」で指示が入ってくるわけですよね。新しいテクノロジーを教えなさい、新しい価値観を教えなさいと。学校で金融を教えろというような要請がありましたね。
でも、そのときどきに産業界が要求している、いわゆる「人材」なるものとは何か、それを考えた方がいいと思うんです。「人材」を育成して送り出せと向こうは学校現場に要求してくるわけですけども、その「人材」の仕様がコロコロ変わるんです。ほとんど毎年のように変わる。そのたびにそれに合わせて学校の教育課程を変えるなんてあり得ないことですよね。
僕は私立学校がシステムの設計について参照すべきものがあるとすれば、それは「建学の理念」だと思うんです。たいせつなのは「建学の理念」であって今の「社会のニーズ」なんかじゃない。だって、建学された時、学校には何にも「手持ち」がないんですから。そもそも在校生がまだいない。卒業生もまだ出していない。自分たちの学校がこの社会でどういうような役割を担うものであるかまだ検証ができていない。でも、理想だけはある。何より建学時には「社会のニーズ」なんかないんです。卒業生に対する社会のニーズが全くないという状況で建学者たちは教育を始めた。
神戸女学院は、明治8年創建なので、もうすぐ150年になりますが、アメリカからやってきたタルカットとダッドレーという二人の女性宣教師が神戸で開校した小さい塾から始まります。この2人の宣教師はサンフランシスコから船に乗って太平洋を横断して日本に来るんですけれど、出航時点においては、まだ日本ではキリシタン禁制の高札が掲げられていたんです。「社会のニーズ」どころじゃない。「来るな」と言われているところに来たわけです。「社会的ニーズ」はゼロというよりマイナスだったわけですよね。でも、「来るな」と言われても行きたい。どうしても教えたいことがある、伝えたいことがある。そうやって神戸で小さい学塾を始めたら、そこに少しずつ引きつけられるようにして子どもたちが集まってきて、いつの間にか150年が経っていた。
建学の時点において「社会的なニーズ」がゼロであったということはとても大きいと思うんです。ニーズはなかったけれど、代わりに「教えたいこと」があった。「伝えたいこと」があった。「こういうような教育をしてください」というニーズがあって、それに応じて「はい、分かりました」というので何か知識や技能を教えるというようなかたちで私立の学校教育は始まったわけじゃありません。日本の大学は75%が私学ですけども、この私学は本質的には全部がそうです。「教えたいこと」がまずあって学校教育が始まった。「どこもやっていない教育」をしたかったからですね。ほかのどこでもやっていないから、自分がやりたい教育のために身銭を切って学校をつくった。そこから日本の私学教育が始まったわけです。
でも、「ニーズ」という言葉がある時期から、90年代の終わりころからでしょうか、教育現場でさかんに口にされるようになった。「マーケットのニーズ」がどうたらこうたらと教授会で言い出す人が出てきた。そういうマーケティング用語とか、「質保証」とか「工程管理」とかいう工学用語で教育を語る人が増えてきた。でも、僕はそれは違うんじゃないかと思っていました。もし社会のニーズを満たすために学校教育があるなら、日本の私学のほとんどは今存在していないはずだからです。
慶應義塾は「私学の雄」ですけれども、福沢諭吉の『福翁自伝』を読んでいると、「社会的なニーズ」への配慮なんかないんです。彰義隊の戦争のさなかに、江戸中が火の海になるかというときに福沢諭吉は経済学の英書を読む講義をしているわけです。徳川時代の藩校はもう教育機関として機能していない。新政府にはまだ学校を作る余裕がない。いやしくも今の日本を見回して、まともな高等教育をしているのは慶應義塾ただ一つである、と。この反社会性を僕は非常に好ましく思うんですよね。今の日本でまともな教育をしているのはうちしかないんだと福沢諭吉は豪語するわけです。みんな戦争に夢中になっている。相場の上げ下げで右往左往している。その喧噪の中で、われわれは悠々と経済学を講じている。社会の目先のありようとまったく関係ないことをしている。それが学校教育の意義だ、と。
福澤は若い時は大阪の適塾にいて、オランダ語の文献を読みました。哲学書を読み、工学や化学の書物を読み、医学や薬学の書物を読み。とにかくオランダ語で書かれている文献を片っ端から読んだ。もちろん、そんな知識や技能についての「ニーズ」なんか江戸時代の日本社会のどこにもないんです。だから、意地で読んでいる。なぜ意地で読んでいるのかというと「こんなにややこしいもの」を読んでいるのは日本広しといえども、われわれしかいないという自尊心からです。エリート意識というのとはちょっと違う。だって、エリート意識って、既存の支配階級の上の方にいる人間が持つものですからね。適塾の貧乏書生は階級の外にいる。時流にきっぱり背を向けて、金にもならないし、出世にも結び付かない学問している俺たちは「ただものではないぞ」という苦しまぎれのプライドだけを支えに貧しさや飢えに耐えていた。福澤はそう書いています。
でも、学ぶ人間の気概っていうのは本来そういうものなんじゃないかなって気がするんですね。「いやしくも日本広しといえども、こんな変なことを研究しているのは俺一人だ」というような態度の悪さが知的な緊張を持続するためには必要なんです。
学校教育もそうだと思うんですね。世の中とうまくなじんで、社会のニーズにぴったりと対応した教育をしているような学校にはなりたくない、と腹を括って、世間から「一体あんたのところは何をやっているんだ」と白眼視されるような教育をする。そういう学校の側の気概は在校生・卒業生にはちゃんと伝わるわけです。だから、「今の日本であんな変な教育をしている学校はうちの母校しかない。だったら、守らなければ」という気持ちを持つようになる。そういう形で僕は学校を続けていけばいいと思うんです。だから、サイズが大きい必要は全くない。小さい学校で構わない。これから日本の人口はどんどん減っていくわけですから、小さいサイズでいいんです。
2024年
10月
25日
金
教育は惰性の強い仕組みなんです。もちろん変化しますが、ゆっくりとしか変化しない。急激な変化は受け付けない。
2024年10月11日の内田樹さんの論考「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その1)をご紹介する。
どおぞ。
どうもこんにちは。ご紹介いただきました内田です。飯能というところ来るのは初めてです。先ほどご紹介いただいた通り、僕は神戸で「凱風館」という武道の道場と学塾をやっております。そこに9年に入門された井手くんと岡野さんというご夫婦がいます。井手君は僕のIT秘書というのをやっていただいております。岡野さんはこの5月から書生として働いていただいています。凱風館には今書生が5人いるんですけども、その中で一番の新人です。そういうご縁のあるお二人がこの自由の森学園の卒業生ということで、このたび40周年の記念講演にお招きいただくことになりました。
自由の森学園創建40周年おめでとうございます。卒業生、在校生がこれだけ集まってくれるということは、それだけ母校に対する愛情が深いからだと思います。二人の門人も遠く神戸から今日ここまで来てくれました。卒業した学校のためにここまで献身的になるというのは、なかなかできないことです。
僕は自分の卒業した学校に関してほとんど愛着がありません。大学から寄付を求められたことがありましたけれど、そのままゴミ箱に投げ捨ました。1回だけ、母校の文学部から文学部に来る学生数が激減してしまい、なんとかテコ入れをしたいので「文学部に進学してください」という宣伝パンフレットを作るのでそこにご登場いただきたいというリクエストにお応えしたことがあります。でも、後にも先にも、母校のために何かしたというのは、それきりです。
何人かよい友だちができたこと以外に「ああ、あの大学に行ってほんとうによかった」と思ったことがありません。学校に対しては何も感謝していない。そういう人間から見ると、卒業生たちが母校に対してこれだけ強い愛着、愛情が持てるということは、ここでなされたすばらしい教育の成果だと思います。
僕は長く神戸女学院大学というところの教師をしておりました。神戸女学院は中学から大学まである女子校ですが、ここでも卒業生たちの愛校心に驚かされました。ほんとうに小さい学校なのですが、歴史が長いので同窓会員が3万人ぐらいいます。この3万人の方たちが学校のあり方に大きな影響力を発揮している。
僕は同窓生が母校の教学や経営に関して発言することは決して悪いことだとは思わないんです。むしろ好ましく思っていました。というのは、同窓生は「母校が変わらないこと」を願うからです。自分が卒業した学校がそのあとどんどん変わって、キャンパスが移転し、カリキュラムが変わり、卒業した学科や学部がなくなる...ということを同窓生は望まない。学校経営者はビジネスマン的なセンスに従って、そういうふうに「時流に合わせる」ことをしたがるんですけれど、同窓会の人たちは変化に抵抗するんです。そりゃそうですよね。自分が卒業した学部学科がなくなるということは、「あなたが受けた教育は意味がなかった。もう時代遅れなんだ」と卒業生に向かって宣告するに等しいわけですからね。卒業生に対して「あなた方が受けた教育はもう社会的有用性を失った」と告げることは、教育機関としては本来恥ずべきことだと思うんですよね。たしかに学科・学部を廃止したり新設したりということは避けられないことではあると思うんですけれど、それに対して学校側はある種の「疚しさ」を感ずべきだと思うんです。
学校というのは宇沢弘文先生が言うところの「社会的共通資本」の一つです。「社会共通資本」というのは、集団が存続していくために絶対に必要なもので、これは専門家によって専門的知見に基づいて、安定的に管理・運営されなければならない。大気、土壌、海洋、河川、湖沼、森林とかいう自然環境。それから社会的インフラ。上下水道、交通網、通信網、電気ガス。これらも安定的に管理されなければいけない。そしてもう一つ、司法、行政、医療、教育といったシステムですね。これらもまた集団が存続していくためになくてはならないものです。社会的共通資本は急激に変化してはいけないんです。もちろん変化はするんですけれども、ゆっくりとしか変化しない。
政治や経済は急激に変化するものです。政治や経済は「複雑系」ですから仕方がありません。「複雑系」というのは、わずかな入力変化によって劇的な出力変化が生じるシステムのことです。「北京で蝶が羽ばたくとカリフォルニアでハリケーンが起きる」という喩えがよく使われますけれど、わずかな入力変化が劇的な出力変化になる。だから政治や経済はおもしろいわけです。みんな夢中になる。個人のコミットメントによって、場合によっては状況や市場が一変することがあるんですから楽しくないはずはない。政治や経済は「そういうもの」なんです。それを楽しむ人たちは楽しめばいい。
けれども、それ以外の人間の営みは必ずしも政治や経済と同じような複雑系ではないし、複雑系であってはならない。わずかな入力変化によって劇的にシステムが変わってしまっては困るものが僕たちの周りには多々あるわけですよね。行政とか司法とか医療とか教育はそういうものです。政権交代したから司法判断が変わるとか、株価が下がったので教育カリキュラムが変わるとか、そういうことがあっては困る。極端な話、革命が起きても、戦争が始まっても、水道からは水が出るし、地下鉄は時間通り来るということが望ましいんです。ほかのセクターではあってもいいことがあってはならないという分野があるんです。
でも、いくらそう言っても、分かってくれない人は分かってくれないんですよね。彼らは社会の変化というのは均一的に、すべてのセクターに及ぶものだと信じている。政治過程や経済活動に変化が起きたら、それに合わせてほかのシステムも全部変わらないといけないと信じている。教育に関しては、こういう考え方をされることはほんとうにはた迷惑なんですね。「社会がこれだけ変化しているのになんで教育は変わらないんだ」と。そういうタイプの恫喝を教育現場はずっと受け続けてきました。「硬直的にすぎるんじゃないか。保守的にすぎるんじゃないか。なぜ社会の変化と同調しないで、古めかしい教育をしているんだ」、と。でも、教育は本来「惰性が強いシステム」なんです。ゆっくりとしか変化しない。
それを教えてくれたのは、諏訪哲二さんという方です。昔『オレ様化する子どもたち』という本を書かれた方です。高校の社会科の先生だったと伺いましたが、諏訪先生と僕が若い頃に対談したことがありました。そのときに諏訪先生が「教育は、惰性の強い仕組みですから」とおっしゃったことが非常に印象に残っています。そのあとに宇沢先生の本を読んで、「ああ、そういうことなんだ」と腑に落ちました。そうなんです。教育は惰性の強い仕組みなんです。もちろん変化しますが、ゆっくりとしか変化しない。急激な変化は受け付けない。でも、学校の現場には、文科省とか産業界とかあるいはメディアとかから「変われ、変われ」という圧力がずっとかかっている。
2024年
10月
24日
木
10月18日(金)早朝、坂道ダッシュ400m×3本、48分13秒、6.85㎞、平均ペース7分02秒/㎞、総上昇量124m、消費カロリー480㎉。
10月19日(土)早朝、階段1045段、50分02秒、6.22㎞、平均ペース8分03秒/㎞、総上昇量86m、消費カロリー479㎉。
10月20日(日)午前、ロング走(後半)、3時間45分16秒、26.52㎞、平均ペース8分30秒/㎞、総上昇量442m、消費カロリー1827㎉。
1 6分55秒
2 7分14秒
3 7分22秒
4 8分12秒
5 10分14秒
6 10分18秒
7 5分35秒
8 5分29秒
9 6分53秒
10 7分01秒
11 8分21秒
12 7分26秒
13 6分57秒
14 7分21秒
15 6分47秒
16 6分41秒
17 8分12秒
18 8分49秒
19 9分57秒
20 8分13秒
21 10分38秒
22 11分34秒
23 12分34秒
24 11分38秒
25 9分39秒
26 10分39秒
27 8分56秒(520m)
10月21日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。
金曜日ころから右脚の太ももの裏側に腫れ物ができて痛い。
10月23日(水)早朝、休足。
右脚の太ももの裏側の腫れが退かない。
10月24日(木)早朝、休足。
右脚の太ももの裏側の腫れが少しだけマシになった。
奈良市内で、奈良マラソン2024交通規制の立て看板を見かけた。
2024年
10月
23日
水
たしかに何が起きたのかは伝えられている。けれども、その出来事が「何を意味するのか」についてはみごとに何も書かれていない。
2024年10月11日の内田樹さんの論考「新聞の落日」をご紹介する。
どおぞ。
10日ほど入院していた。部屋にはテレビがあったが、テレビを観る習慣がないので一度もつけなかった。新聞は朝夕部屋に届けられた。暇なのでこれは隅から隅まで読んだ。そして深い吐息をついた。なんと無内容なのか。日本有数の全国紙なのに、一つとして再読したくなる記事がなかった。
たしかに何が起きたのかは伝えられている。けれども、その出来事が「何を意味するのか」についてはみごとに何も書かれていない。いや、昨日今日の間に生じた変化についてなら多少は書いてある。「昨日と今日では言うことが変わった」とか「先週予想されていたのとは違う展開になった」くらいのことは書かれている。けれど、一年前から、あるいは10年前から、あるいは100年前からの歴史的文脈の中で今起きている出来事を俯瞰するという記事にはついに一度も出会わなかった。日本のジャーナリズムにそういう知的習慣がないということは身に浸みてわかった。
だが、かなり長いタイムスパンの中において見ないと、出来事の意味というのはわからない。だから、文脈が示されないままに速報記事をいくら読まされても、今何が起きているのかはわからない。10日間新聞を読んでそれがよくわかった。これでは購読者がいなくなって当然である。
今年6月の調査で、朝日新聞は発行部数340万部、読売新聞は586万部だった。15年前に朝日は800万部、読売は1000万部を称していたからすさまじい部数減である。
2013年に私が朝日新聞の紙面審議委員をしていた当時、毎年5万の部数減だという報告を聞いた。危機的な数字ではないかと私が質したら、当時の編集幹部に鼻先で嗤われた。「内田さん計算してみてくださいよ。年間5万部なら800万部がゼロになるまで160年かかるんですよ」。
でも、実際には10年で60%部数を減らした。新聞記者は自分の足元で起きていることについてよく理解できていないということをその時知った。自分の足元で起きていることについて理解できない人間が、それ以外のトピックについては例外的に高い分析能力を発揮するということを私は信じない。
おそらくもうずいぶん前から日本のメディアは「現実を観察し、解釈し、その意味を明らかにし、これから起きることを予測する」といった一連の知的プロセスを放棄してきたのだと思う。もし報道において最も重要なのが「客観性」と「速報性」であるというのがほんとうなら、たしかにそのような「知的プロセス」は無用のものである。出来事の「解釈」に踏み込めば「主観」がまじるし、歴史的「文脈」を論じれば速報性とは無縁の「長い話」を語らなければならない。ストレートニュースを「未加工」のままごろんと放り出ておけばメディアの仕事は終わるなら話は簡単だ。
でも、そう思うようになってからメディアの頽廃はとめどなく進んだ。その記事が何を意味するのか、書いている記者も読んでいる読者もわかっていないようなニュースに読む価値はあるのだろうか。私は「ない」と思う。
新聞から読者が離れた最大の理由は新聞から批評性が失われたからである。批評性というのは今自分たちが囚われてる「臆断の檻」から逃れ出て、少しでも自由に言葉を語りたい、少しでも知性の可動域を拡げたい、少しでも遠くまで想像力を疾走させたい...という書き手の「切望」のことである。そのような「切望」を新聞記事からはもう全く感じることがない。だが、出来事を定型的な枠組みの中にはめ込んで、定型句で叙しただけの文章を読んで過ごすほど私たちの人生は長くない。(週刊金曜日10月2日)
2024年
10月
22日
火
みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。
急に朝方が冷え込むようになって
体調など崩されていませんか?
昼間は過ごしやすくなったので、
体調崩してる場合じゃないですよ(・∀・)
というわけで!
いいお天気に恵まれ、先週の連休に平城宮跡で催された
天平祭
秋の散策フェスタ 餃子お肉大作戦VSおいも大作戦
に参戦して参りました!
平城宮跡の朱雀門ひろばの前に復元された朱雀大路の片側に
遠州浜松餃子・宇都宮餃子・宮崎餃子・佐賀牛の赤身ステーキ・焼き芋屋さんやお芋スイーツの屋台30店舗がずら~と並び、
辺りには餃子やお肉のいいにおいが😍
迷いに迷って、さいたまの爆汁ボール小籠包と湘南からあげと遠州浜松餃子と樹樹の宮崎ぎょうざと宇都宮はちまん餃子(← 迷った割に多くない?)をチョイス♪
↑ 一部画像は「平城宮跡歴史公園」のHPよりお借りしました
このほかにたっくさんの出店がありました
店舗の反対側にずらっとテーブルと椅子が並べられ、落ち着いて頂くことができました😋
売り子さんが各テーブルまで冷た~いビールの販売に回っていて
めちゃくちゃ飲みたかった~!!!(でも、運転の予定があるので我慢・・・😢)
KIDSエリアも用意され、射的や金魚すくい、ふわふわドームやふれあい動物ブース、手作りワークショップもあり、小さいお子さんも楽しめるようになっていました。
ワンコもOKなので、たくさんのワンコたちも参戦していましたよ🐾
お肉と餃子を頂いたあとはお芋ソフトにやわらかいもけんぴを❤
さっすがにそれ以上食べられなかったので、
お芋スコーンに壺焼き芋はお持ち帰りしました~🤗
大道芸パフォーマンスも繰り広げられ
日が落ちるとナイトバブルショー(シャボン玉)や花火も上がり、とっても大盛況だったようです。
いや~満腹満腹な一日でしたっ🤤
(そういえば「散策」してないな・・・)
10月12日~20日までは奈良公園で奈良フードフェスティバル2024 シェフェスタが開催されていたので、こちらも狙っていたのですが、
参戦予定をしていた今週末、寒暖差で胃を壊して参戦できませんでした😢
( ← 寒暖差っていうか食べ過ぎちゃうんか?)
来年はリベンジするぞ~!!
是非、Google先生に奈良フードフェスティバル2024 シェフェスタをお尋ね下さい。
あなたも参戦したくなること間違いなし!
2024年
10月
21日
月
「善きもの」はそこにあるのではなく、何もなかったところに新たに生まれるのである。
2024年10月11日の内田樹さんの論考「希望のまち」をご紹介する。
どおぞ。
『週刊金曜日』の読者の方なら北九州でホームレスや困窮家庭の支援をしている抱樸という団体とその代表である奥田知志牧師の名前はご存じだと思う。
抱樸がいま進めている「希望のまち」というプロジェクトがある。
北九州市はかつて工藤会という暴力団があって、犯罪多発の「怖い街」だった。工藤会が解散させられ、事務所が解体されて更地になった。そこを抱樸が買い取って、支援を求めるあらゆる人たちに開かれた「希望のまち」を作るという野心的なプロジェクトを奥田牧師が立ち上げた。土地取得資金には篤志家たちからの寄付を求めた。すぐに土地取得のための借り入れを完済できるだけの寄付が集まった。続いて助成5億円と借入5億円と寄付3億円を原資に建物の計画が始まった。
でも、ご存じの通り、コロナと戦争と円安で資材が高騰して、当初予算では作れなくなった。それでも見切り発車で来年初めには着工する。まだ1億円足りない。それをクラウドファンディングで集めることになった。そのための記者会見が先日あった。
奥田さんの堂々たるプレゼンテーションのあとに、抱樸の活動について職員と支援を受けてきた人たちからの報告があり、最後に応援団を代表して村木厚子さんと辻愛沙子さんと私が応援の一言を述べた。
抱樸のスローガンは「わたしがいる あなたがいる なんとかなる」である。私の世代の人ならすぐにわかると思うけれど、これはかつて植木等が歌った「銭のないやつは俺んとこへ来い 俺もないけど心配すんな 見ろよ青い空白い雲 そのうちなんとかなるだろう」という『黙って俺についてこい』(作詞:青島幸男)の思想そのままである。
オレは銭があるから「銭のないやつ」を支援するわけではない。そこが慈善事業とは違う。オレにも銭はないのである。それでもなけなしの贈り物をする。すると不思議なことに、どこからともなくオレの手持ちをはるかに超える「贈り物」が届く。
自分自身も貧しいのだけれども、贈与と支援のために最初に身銭を切る決意をした人の善意を嘉して「天」から法外な贈り物が届くのである。
「見ろよ青い空白い雲」という装飾的な一行に青島幸男は彼なりの信仰を託したのだと思う。
私が奥田さんの企てを尊いと思うのは、それが「性善説」に基づくプロジェクトだからである。
単なる「性善説」ではない。「人の本性は善であるはずだ」という奥田さんの確信によって、人のうちなる隠れた善性が覚醒し、呼吸し始めるという「動的性善説」なのである。
自分が特別に善良な人間だとも、博愛的な人間だとも別に思っていなかった...という人たちのうちに眠っていた善性が奥田さんの言葉と実践によって賦活されるのである。それまでそこになかった(ように思えたもの)が存在し始める。だから「そのうちなんとなるだろう」なのである。「善きもの」はそこにあるのではなく、何もなかったところに新たに生まれるのである。
今の日本には攻撃的で虚無的な言葉が溢れている。現実をろくでもないものと知りながら、その抜け穴を利用することがスマートだと思っている冷笑家と、みすぼらしい現実を前に悲憤慷慨することに疲れ果てた人たちの嘆息ばかりが目につく。その中にあって「動的性善説」に立つ抱樸の活動は異彩を放っている。
時代を刷新するものはつねに「誰も予想していなかったところ」から「誰も予想していなかったかたち」をとって登場する。抱樸はその「新しいもの」だという予感が私にはする。(週刊金曜日9月4日)
2024年
10月
18日
金
「最終学歴がアメリカ」であることがエリートの条件ということになると、それは「植民地化」を受け入れることを意味します。
2024年10月11日の内田樹さんの論考「経済格差から教育格差へ」をご紹介する。
どおぞ。
みなさんは今回の自民党総裁選の候補者9人のうち6人が「最終学歴がアメリカの大学または大学院」であったことにお気づきでしたか。日本の政治エリートに関して言えば「最終学歴がアメリカ」であることがデフォルトになりつつあります。僕はこういう傾向は端的に「よくない」と思います。
「どこの国の大学に行こうと本人の自由じゃないか。グローバル化の時代なんだ。海外に出て学ぼうという意欲的な若者のどこが悪いんだよ」と反論する人がいるかも知れません。
政治家だけでなく、ビジネスマンでも学者でも子どもを中学からインターナショナルスクールに通わせたり、海外に留学させることが流行です。その方が英語圏で高等教育を受ける上でアドバンテージがあるからです。
でも、ちょっと考えてみてください。ハーヴァード大学の年間授業料は5万6550ドル、今の為替レートで800万円以上です。寮費や生活費を入れると年間1000万円超を子どもひとりに仕送りできる家庭の子しかアイヴィー・リーグに留学することはできないんです。
いくら「海外で学ぶ意欲」があっても、家が貧しければ、例外的な天才以外、まずそんな肩書は手に入りません。僕はこういうのは「フェアじゃない」と思います。
親の世代の経済格差が、子どもの受ける教育の格差をもたらし、それが次世代の経済格差を再生産する。そんなシステムのどこがいいんですか。
国の仕事は、家がどんなに貧しくても、子どもたちが望む限り最も質の高い教育を受けられることを支援することではないんですか。ですから、教育は基本的に無償であるべきだし、国内で、母語で、世界水準の高等教育を受けることができるのでなければならない。
でも、日本の高等教育における私費負担率は67%です。OECD平均31%と比べると、日本政府が「家が貧しい子どもが高等教育を受けるためには、それなりの代価を払わなければならない(払えないやつは諦めてくれ)」という教育政策を採っていることは明らかです。
日本育英会の奨学金制度がなくなったのは20年前ですが、その理由は「公的な支援があると、銀行の学資ローンの借り手が減る。これは政府による民業圧迫だ」というものでした。銀行の利益を確保するために奨学金制度は廃止されたのです。それまでは卒業後に教職や研究職などの「免除職」に就くと、返還義務がなくなったんです(教員のなり手が激減したせいで、教員については最近免除職が復活しましたが)。
家の貧富にかかわらず、努力さえすれば誰でも質の高い教育を受けられる制度を作ることは明治政府の悲願でした。とりわけ母語で大学教育が受けられることを先人は切望しました。というのは、母語ではまともな高等教育が受けられないので、キャリア上昇を望む子どもたちは先進国に留学するというのはその国が「後進国」であり「植民地」であることの証拠だったからです。
今の日本は母語で大学院教育が受けられ、母語で書いた論文で博士号が取れますけれども、これは世界を見渡してもかなり例外的なことです。これは先人たちから後続する世代への「贈り物」だったと僕は思います。
でも、「最終学歴がアメリカ」であることがエリートの条件ということになると、それは「植民地化」を受け入れることを意味します。英語圏の大学で、英語で授業を受けて、英語で論文を書いて学位を取った人を成功者とみなす制度を作って「グローバル化を達成した」と喜んでいる人を見たら、明治の人は悔し涙を流すことでしょう。(『蛍雪時代』9月25日)
2024年
10月
17日
木
10月11日(金)早朝、丘の階段641段、49分32秒、7.2㎞、平均ペース6分53秒/㎞、総上昇量155m、消費カロリー517㎉。
1 6分40秒(上り下り)
2 7分01秒(上り)
3 7分07秒(上り下り)
4 8分19秒(階段)
5 8分07秒(上り下り)
6 5分29秒(下り)
7 5分43秒(上り下り)
8 5分37秒(200m)
10月12日(土)早朝、ウインドスプリント300m×10本、48分08秒、7.67㎞、平均ペース6分17秒/㎞、総上昇量86m、消費カロリー527㎉。
10月13日(日)早朝、ジョギング、54分37秒、7.69㎞、平均ペース7分06秒/㎞、総上昇量183m、消費カロリー539㎉。
10月14日(月・祝)午前、ジョギング、4時間09分08秒、28.5㎞、総上昇量694m、消費カロリー1911㎉。
1 7分12秒
2 7分30秒
3 7分55秒
4 8分14秒
5 7分33秒
6 6分40秒
7 7分11秒
8 8分11秒
9 7分30秒
10 8分29秒
11 8分04秒
12 7分40秒
13 7分12秒
14 7分45秒
15 7分27秒
16 11分20秒
17 9分46秒
18 12分09秒
19 12分35秒
20 12分04秒
21 9分50秒
22 7分22秒
23 10分11秒
24 8分58秒
25 8分48秒
26 8分21秒
27 9分43秒
28 8分59秒
29 9分01秒(500m)
10月15日(火)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。
脚を休めるためにトレッドミルで走らなかった。
10月16日(水)早朝、安藤大さんのアントレ。
月曜日の疲れが残っているので、運動量はいつもの半分にした。
10月17日(木)早朝、テンポ走、38分28秒、6.22㎞、平均ペース6分11秒/㎞、総上昇量86m、消費カロリー433㎉。
2024年
10月
16日
水
組織マネジメント原理主義者は「組織マネジメント原理主義者が組織マネジメントの中枢にいるべきである」という同語反復的命題のうちから踏み出すことができない。ほんとうは「賢い人が」が主語になるべきなのに。
2024年10月11日の内田樹さんの論考「組織マネジメント原理主義者の末路」をご紹介する。
どおぞ。
兵庫県の斎藤知事の失職に至る一連の出来事には現代日本の組織を特徴づける歪みが露呈していたように思われる。「組織マネジメント原理主義」と私が繰り返し呼んできたものである。
あらゆる組織は何らかの使命を託されており、それを実現するために存在する。けれども、組織が長く続くと、人々はその組織がそもそもいかなる「よきこと」をもたらすために、あるいはいかなる「悪しきこと」を防ぐために創建されたのか、その起源を忘れてしまう。
必ず忘れる。そして、いつの間にか組織の存続が自己目的化する。何のためにこの組織が存在しているのかを問うことを忘れて、「どういう組織であるべきか」についてばかり語り始める。
私が「組織マネジメント原理主義者」と呼ぶのはこの人たちのことである。彼らは社会の変化にそのつど最適化するためには組織は上意下達的に編制されていなければならないと信じ切っている。だから、あらゆる組織は最上位者の指示が末端まで遅滞なく示達されなければならない。完全に中枢的に統御された組織こそ最も迅速に環境の変化に即応できると信じているからである。これが今の日本社会の主流をなす組織論である。でも、ほんとうはそうではないのだ。
考えればわかるが、中枢的に統御された組織は、中枢が無能で愚鈍であれば環境の変化に即応できず破滅的な事態を招くからである。そして、まことに残念なことに、組織マネジメント原理主義者は「組織マネジメント原理主義者が組織マネジメントの中枢にいるべきである」という同語反復的命題のうちから踏み出すことができない。ほんとうは「賢い人が」が主語になるべきなのに。
兵庫県知事は典型的な「組織マネジメント原理主義者」だったと思う。だから、県庁を中枢的に統御することについてはきわめて熱心だったし、率直に言って、それにはかなり成功したのだと思う。そのひたむきな努力と真摯さは率直に認めてよいと思う。「パワハラ」と称されるものについて、彼自身は「強めの指導」ということ以上のものではないと今でも信じているはずである。それは「硬直的な制度」に文字通り「キックを入れて」、組織化を可塑化するためだったのである。下僚に暴言を吐いたり、無意味なタスクを強いたのも「ボスは誰か」を思い知らせて、組織は惰性や前例に従うのではなく、トップの恣意に従うべきだという「新しいルール」を周知するための努力だったのである。
おそらく、彼は知事1期4年をかけて県庁内に恐怖政治を敷き、その結果県庁を完全な中枢的な上意下達組織(独裁制と言ってもよい)に作り替え、2期目以降にそれを足場に県政のドラスティックな改革を実現するつもりでいたのだと思う。組織マネジメント原理主義者としてはそう考えることは少しも間違っていない。
彼の犯した最大の間違いは、中枢的な組織のトップで独裁的な権限をふるうことが許されるのは「そういうのが好きな人」ではなくて、「賢い人」でなければならないという「原理主義以前」の自明の真理を見落としていたことである。
今の日本社会にはこの知事と同類の「あまり賢くない組織マネジメント原理主義者」が跳梁跋扈している。日本がここまで没落した理由の過半はそのせいであると私は思う。(中日新聞 9月26日)
2024年
10月
15日
火
皆さんこんにちは。今日は事務局担当です。
さて、大谷選手ニュースにまたまた触れさせてください。
先日土曜、
MLBディビジョンシリーズの最終戦が行われ、
ドジャース対パドレスの熱戦が繰り広げられました✨
1勝2敗で崖っぷちの状態でも、
「あとがないという感覚自体が今の僕には特にない。
2連勝すればOK、そういうゲームだと思います」
と前向き宣言をした大谷選手の言葉どおりの展開となり、
やっぱりこの人は凄いなぁの一言です😆
ダルビッシュ投手 対 山本投手 の夢の日本人対決⚾も叶い、
両チームとも譲らぬナイスピッチング!
僅か2球の失投が試合を左右し、結果は2-0でドジャースが勝利をもぎ取りました!
山本投手は、前回の登板が散々な結果に終わり、試合中ずっとうつむいていたのが
印象に残っていたので、今回の登板では汚名返上のピッチングを見せてくれたのが
本当に良かった!
インタビュー中に大谷選手にシャンパンをかけられいたずらされているのも
微笑ましかったです。
でも最後の最後まで気の抜けない展開だったので、中継を見終わった後、
どっと疲れて睡魔に襲われたのは私だけでしょうか・・・😅
そして、興奮冷めやらぬまま、昨日からメッツとのリーグチャンピオンシリーズが
始まっています。
今シリーズでは7戦中4勝したチームが、次のワールドシリーズへと勝ち進むことに
なるのですが、今日の試合は残念ながら負けてしまったので現時点で1勝1敗。
移動日を挟み明後日からメッツの本拠地で3連戦が始まります。
どちらのチームが勝っても日本人選手が残るので喜ばしいことですが、
私はやはりドジャース推しなので、是非ともワールドシリーズに勝ち進んでいただき、
ジャッジとの対決が見てみたいのです♪
ニューヨークは少し寒いようですが、大谷選手の目が覚めるようなホームランが
出ることを期待してます😄
2024年
10月
11日
金
安倍・菅・岸田三代の政治の特徴は「国民の要望には一切応じない」という点にあった。国民が無力感に蝕まれ、政治参加の意欲を失し、選挙で棄権し、結果的にコアな集票組織を持つ政権与党が選挙に勝ち続けるという「必勝パターン」を自民党は発見した。民意に応じると有権者はつけあがる。それよりも「お前たちは無力だ」と思い知らせる方が政権は安定する。
2024年10月8日の内田樹さんの論考「虚無の政治力学」をご紹介する。
どおぞ。
総裁選中は現行の「健康保険証」と「マイナ保険証」について問われて、「併用も選択肢として当然ある」と答えていた石破茂氏だったが、政権が発足すると同時に、健康保険証を12月2日に廃止して、マイナンバーカードに原則一本化する政府方針を「堅持する」とアジェンダを覆した。
多くの人がこの食言を咎めている。
でも、よく考えると、間尺に合わない話である。自民党総裁選は「内輪のパーティ」の話であって、総裁になるためには別に「国民に受けるアジェンダ」を掲げる必要はなかったのである。ではなぜ一瞬だけ期待させておいて、また失望させるような「余計なこと」をしたのか。
健康保険証の廃止に対しては医療現場も利用者も反対している。早期導入を求めているのは霞が関と財界だけで、これを争点化すれば総選挙で票を減らすことはあっても増やすことはない。ご祝儀で支持率が高いうちに総選挙という知恵が働くなら、「健康保険証廃止は延期」にした方が得票は増えるくらいのことはわかるはずである。あえて国民の気分を逆なでするのはなぜか。
これは安倍政権以来三代の「成功体験」をふまえての政治判断だと私は思う。
安倍・菅・岸田三代の政治の特徴は「国民の要望には一切応じない」という点にあった。国民が無力感に蝕まれ、政治参加の意欲を失し、選挙で棄権し、結果的にコアな集票組織を持つ政権与党が選挙に勝ち続けるという「必勝パターン」を自民党は発見した。民意に応じると有権者はつけあがる。それよりも「お前たちは無力だ」と思い知らせる方が政権は安定する。
現行健康保険証の延長は国民の切なる願いである。それを踏みにじることで自民党は有権者の「期待」を失うが、代わりに有権者に「無力感」を与えることはできる。おそらく後者の方が政権延命には資する。そういう判断があったのだと思う。
私が知る限り、政治がここまで虚無的になったことはかつてない。
2024年
10月
10日
木
9月27日(金)早朝、全力・ジョギング・全力、36分11秒、6.206㎞、平均ペース5分49秒/㎞、累積上昇80m、消費カロリー390㎉。
7分10秒(600m)
5分24秒、5分27秒
6分24秒、6分56秒(600m)
5分09秒、5分22秒
5分25秒(100m)
9月28日(土)早朝、ビルドアップ走、36分19秒、6.24㎞、平均ペース5分49秒/㎞、総上昇量92m、消費カロリー425㎉。
1 6分06秒(上り下り)
2 6分05秒(上り)
3 5分42秒
4 5分55秒
5 5分24秒(下り)
6 5分52秒(上り下り)
7 5分17秒(240m)
9月29日(日)早朝、ジョギング、1時間24分51秒、12.41㎞、平均ペース6分50秒/㎞、総上昇量203m、消費カロリー885㎉。
1 6分59秒(上り下り)
2 7分18秒(上り)
3 7分30秒(上り下り)
4 6分36秒
5 6分33秒
6 6分21秒
7 6分45秒
8 6分45秒
9 7分05秒(上り下り)
10 8分24秒(上り下り)
11 5分58秒(下り)
12 6分16秒(上り下り)
13 5分44秒(410m)
久しぶりに1時間以上走った。
9月30日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。
10月1日(火)早朝、室内トレーニング。
夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜2.0%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー362㎉、手首に重り1㎏×2。
10月2日(水)早朝、安藤大さんのアントレ、足首に重り約0.5㎏×2。
10月3日(木)早朝、雨、室内トレーニング。
10月4日(金)早朝、雨、室内トレーニング。
10月5日(土)早朝、インターバル走、35分51秒。
10月6日(日)早朝、河津桜並木、1時間56分13秒、16.91㎞、平均ペース6分52秒/㎞、総上昇量231m、消費カロリー1160㎉。
1 6分58秒(上り下り)
2 7分22秒(上り)
3 7分43秒(上り下り)
4 6分35秒
5 6分26秒
6 6分32秒
7 6分30秒
8 6分51秒
9 6分54秒
10 6分23秒
11 6分31秒
12 7分01秒
13 6分56秒
14 7分46秒(上り下り)
15 7分52秒(上り下り)
16 6分06秒(下り)
17 6分20秒(910m)
10月7日(月)早朝、西園美彌さんの魔女トレ。
10月8日(火)早朝、室内トレーニング。
夜、トレッドミル、30分、4.15㎞、傾斜2.5%、時速8.4㎞(7分00秒/㎞)、消費カロリー368㎉、手首に重り1㎏×2。
10月9日(水)早朝、雨、室内トレーニング。
10月10日(木)早朝、安藤大さんのアントレ。
運動量を増やして、いつもの90%くらいのメニューをこなした。
2024年
10月
09日
水
「日本と韓国が核武装すれば、誤認、誤算、事故の可能性が高まり、核による大惨事のリスクが高まる。このような危険に満ちた現実に直面すれば、北京はアメリカの圧力に屈し、本格的な軍備管理協議に入るかもしれない。」
米国人のこのワイルドな正直さには胸を衝かれる。だが、日本のメディアはこういう米国の「本音」を決して伝えない。
2024年9月30日の内田樹さんの論考「日韓の核武装」をご紹介する。
どおぞ。
韓国内で核武装論が高まっている。世論調査では6~7割の国民が核武装を求めている。北朝鮮の脅威が強まっているせいだ。核ミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮はすでに北米大陸を射程距離にとらえる大陸間弾道弾の開発まで進んでいる。
理由はそれだけではない。米国が「東アジアから撤収する」可能性を韓国民は感知しているのである。「あとは自分たちの才覚でなんとかしてくれ」と言って東アジアから米国が引いた場合、韓国はどうやって隣国と向き合ったらよいのか。
たしかに米国は今も軍事力、経済力では世界に冠絶する超覇権国家である。けれども、国内の分断は深く、「アメリカ・ファースト」を掲げた大統領を選んだ時点ですでに「グローバルリーダーシップ」を放棄している。バイデン政権がガザの虐殺に効果的な抑制を果たし得なかったことで米国の道義的威信はさらに下落した。
最近読んだ米国の外交専門誌Foreign Affairs Report の論文では、「日韓に核武装させたらどうか」というずいぶん乱暴な主張が掲げられていた。安倍元首相はじめ「一部の自民党指導者が核により許容的な立場をみせるようになった」ことの効果として日本人の核アレルギーは緩和しつつある。キッシンジャー元国務長官は昨年「5年以内に日本は核保有国になる方向に向かう」という見通しを語っていた。
この論文の趣旨は要するに日韓核武装という「威嚇策」をちらつかせることで中国から外交上の譲歩を引き出せるのではないかというものであった。「日本と韓国が核武装すれば、誤認、誤算、事故の可能性が高まり、核による大惨事のリスクが高まる。このような危険に満ちた現実に直面すれば、北京はアメリカの圧力に屈し、本格的な軍備管理協議に入るかもしれない。」
米国人のこのワイルドな正直さには胸を衝かれる。だが、日本のメディアはこういう米国の「本音」を決して伝えない。(信濃毎日新聞9月27日)
2024年
10月
08日
火
本日のブログは事務局が担当です。
昨日は、雨でしたが、今日は、少し晴れ間も見れる天気です。
かなり秋らしく涼しくなりましたね。
秋は、食欲と文化の季節、各地では文化祭などのイベントも多いと思います。
なら法律事務所の近くでは、近年恒例の「畝傍駅音楽マルシェ2024」が今年も10月27日(日)に開催されます。
畝傍駅では、地域のアーティストの演奏があり、駅周辺では色々な出店があります。
詳しくは以下のホームページをご覧いただくとして、私からは、以下の提案をしたいと思います。
0月27日(日)は、午前10時からの畝傍駅でのオープニングと駅に残る貴賓室を見学、その後は、周辺の出店しているお店と北八木町の町並みを午前中に巡ってみてください。
出店してしているお店で昼食をとって、おやつを買って、12時50分には畝傍駅に戻ってきていただきます。
そして、畝傍駅13時01発の高田行きの列車に乗り、以下のとおり奈良盆地を1周してはいかがでしょうか?
畝傍駅13:01発⇒(普通:高田行)⇒高田駅13:08着・乗換・高田駅13:10発⇒(普通:王寺行)⇒王寺駅13:26着・乗換(トイレ)・王寺駅14:03発⇒(快速:加茂行)⇒奈良駅14:18着・乗換・奈良駅14:24発⇒(普通:高田行)⇒畝傍駅15:01着。
そして、畝傍駅で、最後の演奏を聴いてイベント終了体験を終えるという提案です。
私は、高校生の夏休みに前記のルートに高田駅と五条駅の往復を加えて、奈良県内のJR旅を楽しみました。
私は、普段はJRは利用していなかったので、車窓の風景がすごく新鮮に観え、とてもリフレッシュできた記憶があります。
是非皆さんも、地域をあらためて観て、巡って秋の一日を過ごすのはいかがでしょうか?
2024年
10月
07日
月
「よりましな未来」を造形するために「最悪の未来」を差し出してみせている。
2024年9月29日の内田樹さんの論考「最悪の事態について想像力を行使することの意味について」をご紹介する。
どおぞ。
ディストピアを語る理由は、ディストピアのありさまをこと細かに語るとディストピアの到来を阻止できる可能性があるからです。これは人類のある種の知恵なんだと思います。
「ディストピアもの」が書かれ出したのは20世紀に入ってからです。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』とかジョージ・オーウェルの『1984』とかがたぶん最初です。でも、ディストピアSFが大量生産されたのは1950年代、60年代のアメリカです。その頃に大量生産されたのは、米ソの間で核戦争が起きて、世界が滅びるという話です。わずかなヒューマンエラーによって核戦争が始まり、文明が消滅する。そういう話です。映画であれ、テレビドラマであれ、漫画であれ、小説であれ、膨大な数のディストピアが書かれました。
僕はSF少年だったのでその頃にリアルタイムで大量のSFを読みました。『博士の異常の愛情』とか『未知への飛行』とか『猿の惑星』とか世界が核戦争で滅びる映画もたくさん作られました。小説もテレビドラマも、とにかく飽きるほど似たような物語が流布しました。
どうしてなんでしょう。どうしてあれだけ大量の「核戦争で世界が滅びる物語」が作られ、流通したんでしょう。僕はそれは「核戦争で世界が滅びて欲しくない」という人々の願望がもたらしたものだと思います。事実、戦後79年経って、まだ一度も核戦争は起きていないのです。
世界中に核兵器保有国があります。米国もロシアも中国もフランスもイギリスもイスラエルもインドもパキスタンも北朝鮮も持っている。地球を何十回も破壊できるだけの核兵器を人類は何十年も保有し続けている。でも、まだ誰も核兵器のボタンを押していない。
どこかでその最後の行為が阻止されているわけです。心理的な壁があって、「これを押すと人類が終わる」ということがわかるから押すことができない。これを押したら人類が終わるとわかるのは、子どもの頃から核戦争で人類が滅びる物語を飽きるほど浴びてきたからですね。人類の愚かさで世界が滅びるそのディストピアの風景というのがあまりリアルなので、さすがに最後のボタンを押すことがためらわられる。
だから、ディストピアを語ることには意義があると僕は思います。到来するかも知れないディストピアについてはできるだけ詳細に語る。どういうヒューマンエラーが世界が滅びるきっかけになるのか、それをありとあらゆる場合についてシミュレーションしてみる。次から次と「フェイルセーフ」が破綻して、最悪の事態に向かって、まっすぐに破滅してゆく。そういう話をほんとうに多くの作家たちやシナリオライターたちが考え抜いた。
もちろんそれは杞憂であり、妄想なんです。でも、妄想を暴走させることが時には必要なんだと思います。どんな妄想でも、微細にわたって記述されれば、そのような妄想的な未来が到来することを防ぐ効果はある。これは、僕がSFから学んだことです。
世界の終わりについてのディストピアの物語がディストピアの到来を防ぐことができるためには条件が要ります。それは大量生産、大量流通、大量消費されるということです。限られた少数の人たちだけの間で語り継がれてもダメなんです。エンターテインメントとして、世界中の人が、ディストピアの物語を「享受する」のでなければ、ディストピアの物語がディストピアの到来を防ぐことはできない。
だから、僕はこうやってみなさんの前に立って、こんな変な話をしているんです。それはみなさんにうちに帰ってしゃべってほしいんですよ。「今日、内田ってやつが講演に来て、変な話ししててね。このまま行くと東京に人口が一極集中して、あとの土地は無住地になるって言うんだよ。変な話でしょ。で、人が住まなくなったところには太陽光パネルや風車や原発だけがあって、その辺をサルやイノシシやクマが走り回っていて、幹線道路から一歩降りたりすると野獣に襲われるなんて・・・変な妄想を語っていたよ」って話して欲しいんです。そのディストピアの光景についての変な話を広げてほしいんです。家で話して、学校で話して、職場で話して...、そのうちに、たくさんの人が日本列島の最悪の未来について具体的なイメージを持ってくれたらいい、そう思って僕はしゃべっているんです。
これは「核戦争で世界が滅びる話」と同じなんです。人類は79年間そういう話をし続けてきた。そして、今のところまだ核戦争は起きていない。僕たちが日本列島が荒れ果てた無住地になる話をしている限り、そのような未来の到来は防げる。逆に言えば、誰もそんな未来を想像しなければ、そんな未来があっさり到来するかも知れない。そういうものなんです。
想像力の現実変成力を侮ってはいけません。「こんなことが起きるんじゃないか?」って想像すると、「図星」を当てられた人間はさすがにちょっとぎくっとするんです。「あなたたち、過疎地を無住地にして、そこに太陽光パネルとか風車とか原発とか産廃廃棄場を作る気でしょう」とずばりと言い当てられると、さすがにいきなり「そういうこと」はしにくくなる。別に罪の意識によってではなくて、「頭の中味を言い当てられる」と人間て立ち止まるんです。さすがに不愉快になって。自分の頭の中って、そんなに外に「筒抜け」になるほどシンプルなのかと思うと、さすがにむかつくんです。だから、「違う」と言う。「そんなこと考えてない」と言う。とりあえずはそれでいいんです。「あなた、これからこういうふうにしようとしているでしょう」と言い当てられると、「そんなこと考えてない」と必ず反射的に答える。人間て、そういうものなんです。だから、そうすれば一時だけは立ち止まらせることができる。もちろんわずかの間のことです。でも、その次に考えそうなことについても、先回りして、「こんなことを次は考えているでしょう」と言い当てることができれば、やはりそこでもしばらくは立ち止まらざるを得ない。そうやって、次の悪知恵をひねり出すまでの間、最悪の事態の到来を一コマずつ先送りすることはできる。
僕がこうやって一生懸命語っているのはそのためなんです。ストーリーを共有したいんです、皆さんと。皆さんもとにかくディストピアを細部まで書き込んでひとりひとりのディストピア物語をつくってほしい。
島田雅彦って作家がいます。友だちなんですけれども、最近『パンとサーカス』っていう小説を書きました。先日文庫化されて、僕が解説を書きました。これはまさにディストピア小説です。日本がどんどんダメな国になってゆき、それに対して対米自立をめざすテロリストがクーデターを起こすというまことに痛快な小説なんです。日本がアメリカの属国になって、ひたすら収奪されて、見る陰もなく貧しく卑しい国になるプロセスが実に生き生きとした筆致で描かれてゆく。どうしてこの人はこんなにうれしそうに書くんだろうって思うくらい、日本が駄目になっていく過程が活写されている。でも、あれは島田雅彦の愛なんだと僕は思うんです。日本を愛してるがゆえに、日本はこんなふうになって欲しくないと思うと筆が走ってしまう。そういうものだと思うんです。
今、僕たちがやるべきことは、妙に訳知りなことを言うのではなく、「あんた、それは妄想だよ」と言われても、そういう未来にだけは絶対に行きたくない「実現して欲しくない未来」について、微に入り細を穿って記述することだと思うんです。「そんな日本にだけはなって欲しくないディストピア日本」の光景をありありと提示する。それがそんな未来を実現させないためには効果的なんです。
僕は「外れて欲しい」から未来を語っているわけですよね。こういう未来だけは実現して欲しくない。僕の予測は絶対に外れて欲しい。だから、「こうなる」と断定しているんです。これ、本当に一生懸命やってるんですよ。
僕は『フォーリン・アフェアーズ』っていうアメリカの外交専門誌を定期購読しているんですけれど、アメリカの政治学者たちについて一番感心するのは、彼らがほんとうに「ディストピア的未来」について想像するのが好きだという点ですね。これは核戦争を阻止したという成功体験があるからなんだと思う。
今月号の特集は「米中戦争」でした。米中戦争がどういうようなきっかけで起きて、どういう展開になっていくのか。日本や韓国はどうなるのか、その悪夢的な未来が事細かに書いてある。読んだ中でこれはすごいなと思ったのは、日本と韓国に核武装させろという論文でした。
アメリカは中国に対してやっぱり強く出ないといかん、と。中国に対して宥和的な姿勢を示すと、中国はひたすら図に乗ってきて、東アジアでの膨脹政策に歯止めがかからない。だから、中国に対して強硬策に出るほうがいいと。そして、一番効果的なのは、日本と韓国に核武装させることだと言うんです。日本と韓国が核武装すると、東アジアの地政学的安定性は失われる。わずかな誤認や誤解がきっかけになって核戦争が始まるリスクが一気に高まる。
中国は東アジアで核戦争が起きることを望んでいない。だから、「このまま強気で来るつもりなら、日韓に核武装させるぞ」と脅したら、アメリカとの軍縮交渉協議のテーブルに着くかも知れない。そういう論文が出ていました。
ずいぶんひどいことを書くなと思いながらも、アメリカ人がこういうタイプの政治的想像力の使い方を重んじるということはよくわかりました。この論文を書いている政治学者はこれを別にアメリカの政策決定者に向かって提言しているだけじゃないんです。中国共産党の指導部が読むことを期待して書いている。『フォーリン・アフェアーズ』は中国共産党指導部の必読文献ですからね。アメリカは場合によっては日韓の核武装と、東アジアでの限定的な核戦争についても腹を括っていると中国に思わせた方がたしかに交渉上は有利だと思って書いている。「よりましな未来」を造形するために「最悪の未来」を差し出してみせている。
そういう政治的マヌーヴァーとしての効果を狙ったしたたかな論文だとは思うんですけれども、読んでいてがっくりしたのは、「日本は唯一の被爆国で核兵器に対してははげしいアレルギーがあったが、安倍晋三以来の自民党政治家たちのおかげで国民の核アレルギーが希薄化しているので、『核武装したいか?』と水を向けたら日本人は嬉々として核武装するだろう」と書いているところでした。こういうところにアメリカが日本を見下しているということが行間から滲み出しているのでした。
それでもやはり、東アジアで中国と日韓が限定的な核戦争をするという状況を想像できるアメリカ人の奔放な想像力には僕は敬意を表します。政治的知性とまでは言わないけど、この奔放な想像力には脱帽しなければいけないという気がします。そこまで考えて初めて、ではどうすれば東アジアでの核戦争は防げるのかという話が始まる。
米中戦争を避けるシナリオをきちんと書くためには、最悪のかたちで米中戦争が始まるのはどういう場合かについて想像力をめぐらせる必要があります。この点に関しては、今、日本は社会全体が集団で病に罹っていると僕は思います。想像力の枯渇という病気です。
若い人たちには、奔放な想像力を駆使して頂きたいと思います。「最悪のシナリオ」をどこまで書き込めるか、そこで想像力を試してもらいたい。最悪の事態について書けるためには、きちんとした知識が必要です。歴史が分かっていて、国際政治が分かっていて、それぞれの国民に取り憑いている地政学的な「物語」についても知識がないと「最悪のシナリオ」は書けません。「最悪のシナリオ」をエンターテインメントとして書けるだけの知識と解読力、それを身につけてもらいたいと思います。思考の自由、想像力の自由、僕が高校生諸君に一番求めていることはそれです。(9月9日、自由の森学園建学40周年記念講演の一部)
2024年
10月
04日
金
ご存じの通り、日本の学校教育への公費支出のGDP比率は久しく先進国最低レベルである。高等教育機関の私費負担割合は、日本が67%。OECD平均は39%である。
2024年9月26日の内田樹さんの論考「新しい門閥制度」をご紹介する。
どおぞ。
自民党総裁選についての報道は専ら候補者たちの政策や党内基盤についてのみ論評している。でも、見落としていることがある。それは9人の候補者のうち6人の最終学歴がアメリカの大学または大学院だということである。残る3人のうちの一人も、日本の大学を出た後にアメリカの下院議員のスタッフになったことをその後のキャリア形成においてずいぶん強調していた。
ということは、自民党に限って言えば、最終学歴がアメリカであることがどうやらキャリア形成の必須条件だということである。私の知る限りでも、日本の富裕層の中では中等教育から子どもを海外あるいはインターナショナル・スクールに送り込むことが「ふつう」になってきている。その方が英語圏の大学に進む上でアドバンテージが大きいからだと説明された。
「グローバル化の時代なんだから、レベルの高い教育を受けるために海外に出るのは個人の自由だ。横からがたがた言うな」と言う人もいるだろう。だが、私はこういう傾向は端的に「よくない」と思う。
ハーヴァード大学の学費は年間56550ドルである。日本円で800万円。生活費を入れると年間1000万円以上を支出できる家庭の子どもしかアイヴィー・リーグに留学することはできない。このハードルを越えられるのは、日本国民の数%にも達しないだろう。
ご存じの通り、日本の学校教育への公費支出のGDP比率は久しく先進国最低レベルである。高等教育機関の私費負担割合は、日本が67%。OECD平均は39%である。見ればわかる通り、日本の政府は「高等教育については自己責任で(お金のある人はよい教育を、ない人はそれなりに)」という方針で教育政策を実施している。
海外の大学大学院を出た人たちがそのまま海外で生活するのなら「グローバル化」と言えるかも知れない。だが、自民党総裁候補者たちのキャリアが明らかにした通り、彼らがアメリカで高等教育を受けたのは、その学歴が日本に帰ってきてから支配層に駆け上がるための捷径だと思ったからである。
だが、これは典型的な「植民地人」のふるまいである。
明治維新のあと、先人は日本人が、日本語で高等教育を行える高校・大学を短期間に創り上げた。これは見事な達成だったと私は思う。彼らは「教育は海外にアウトソースしてはならない」ということ、高等教育を自国語で行えることが植民地にされないための必須の条件だということを知っていた。
今でも母語で大学院教育が行われ、母語で書いた論文で博士号が取れる国は決して多くない。日本はわずか1億2500万人の母語話者しか存在しないにもかかわらず、それができる例外的な国の一つなのである。
だが、いま支配層たちが進めているのは「グローバル化」という看板の下での「高等教育のアウトソーシング」である。「海外にレベルの高い高等教育機関があるなら、何も高いコストを負担して国内に作る必要はないじゃないか」と彼らは考えている。お金持ちはそう考えるのである。そうすれば経済格差が教育格差を経由して、自動的に階層格差を再生産するからである。「下から」這い上がって、彼らの地位を脅かす若者たちは制度的に排除できる。確かに合理的な考えである。けれども、ここには致命的な過誤がある。
19世紀アメリカでも富裕層は公教育の導入に反対した。われわれの子どもの競争相手を育てるためになぜ税金を投じなければならないのか。貧乏人は自己責任で教育機会を手に入れろ、と。一理はある。けれどももしその理屈に従っていたら、アメリカは今も後進国のままだったろう。(9月18日)
2024年
10月
03日
木
9月の放射線量と体組成とランニングについて書く。
まず、奈良県橿原市の環境放射線量(ガンマ線)から。
2024年8月の平均値はつぎのとおり。
室内1メートル 0.0451μ㏜/h
室内0メートル 0.0457μ㏜/h
室外1メートル 0.0589μ㏜/h
室外0メートル 0.0730μ㏜/h
少し高めだ。
つぎに、朝守の身体について。
2024年9月28日の数値はつぎのとおり。
体重 71.25㎏
BMI 22.5
体脂肪率 16.5%
筋肉量 56.40㎏
推定骨量 3.1㎏
内臓脂肪 12.0
基礎代謝量 1623㎉/日
体内年齢 49才
体水分率 58.0%
最後に、2024年9月のランニングの結果。
走行時間 15時間27分25秒
走行距離 141.656㎞
累積標高 2184m
暑い夏を走りきった。
やっと涼しくなってきた。
いよいよランニングの季節である。
2024年
10月
02日
水
農業は始まって1万年。資本主義市場経済が始まってまだ200年。どちらに人間の経験知が蓄積しているか、考えるまでもないだろう。
2024年9月26日の内田樹さんの論考「農業は甦るか」をご紹介する。
どおぞ。
京大の藤井聡教授と農業について話す機会があった。藤井先生と私は政治的立場はずいぶん違うが、農業を守ることと対米従属からの脱却が必要だという点については意見が一致している。二人とも「愛国者」なのである。
ご存じの通り、日本の農業は衰退の一途をたどっている。私が生まれた1950年代、日本の農業就業人口は1500万人だった。総人口の2割が農業に従事していた計算になる。2030年の農業従事者は予測で140万人。かつての1割以下にまで減ることになる。
わが国が国の食糧自給率は38%(鈴木宣弘東大教授によると実は10%以下らしい)。食糧自給率はカナダが266%、オーストラリアが200%、アメリカが132%、フランスが125%、ドイツが86%、英国が65%、イタリアが60%。日本は先進国最低である。政府は2030年には自給率を45%まで上げることを目標にしているが、農業従事者が減り続けているのに、どうやって農業生産を増やすことができるだろうか。
大企業を招致して、大規模な機械化によって生産性の高い農業を実現するというような夢物語を語っているが、企業は自分の土地からの収穫には関心があるだろうが、森林や海洋や河川湖沼のような生態系の保全コストは負担してくれない。でも、生態系が維持されていないと、農業は成立しない。これまで生態系の維持は農民が「不払い労働」として担ってきたが、資本主義企業は「コストの外部化」が基本であるから、そのようなコストは絶対に負担しない。結局、農業ができる生態系の保全コストは税金で賄われることになる。多額の税金を投じて企業が金儲けできる環境を整備しなければ成立しない農業のどこを「生産性が高い」と呼べるのか。
農業は始まって1万年。資本主義市場経済が始まってまだ200年。どちらに人間の経験知が蓄積しているか、考えるまでもないだろう。(信濃毎日新聞 9月13日)
先週に続いて農業の話。
日本の食糧自給率が先進国の中でも際立って低いのはなぜか。一つはわが国では農産物についても「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればよい」という市場原理主義が支配的だからである。そんなはずがないことは、コロナのパンデミックで骨身にしみたのではなかったか。
マスクは「感染症が発生した時には大量に必要になる医療品」を製造コストが安い外国にアウトソースして、「在庫を持たないこと」を経営の成功のように思っていたビジネスマンがもたらした災禍である。
農産物もそれと同じである。戦争でも、パンデミックでも、自然災害でも、円安でも、どんな理由でも「必要なものが手に入らない」ということは起きる。だから、集団が生き延びるために必要なものは自給自足が原則なのである。
事実、アメリカは医療崩壊のあと、必須の医療資源を国産に切り替えて、輸入に頼ることを止めた。これが常識的な対応である。
集団が生き延びるために絶対に必要なものはエネルギーと食糧と医療と教育である。でも、日本はエネルギー自給率は12.6%。先進国で100%を超えているのはノルウェー、オーストラリア、カナダ、アメリカだけである。英仏が60%前後、ドイツが35%。それに比べても日本は異常に低い。何か起きてサプライ・チェーンが途絶したら、日本はたちまちエネルギーが枯渇する国なのである。
けれども、どの基幹資源についても、日本政府は自給自足を目指しているように見えない。むしろ「あなたなしでは生きてゆけない」という弱さを誇示しているように私には見える。日本の農業が壊滅すればアメリカは日本に対して文字通り「生殺与奪の権」を持つことになる。それを為政者たちは属国の代官の地位と引き換えに差し出そうとしている。
藤井聡先生とそんな話をした。(信濃毎日9月20日)
2024年
10月
01日
火
みなさん、こんにちわ。本日は事務局担当日です。
朝晩、すっかり秋らしくなりましたね。
先日、うっかり窓を閉め忘れて寝てしまい、鼻風邪をひいてしまいました・・・。
皆様もお気をつけ下さい。
この週末、夫とワンコの三人で久しぶりに遠出をして参りました🐾
ご存じでしょうか。滋賀県東近江市にある
阿賀神社 通称 太郎坊宮。
勝利と幸運を授ける神様として信仰され、約1400年前に天狗が住む「赤神山(あかがみやま)」に霊威を感じた聖徳太子が、神祀りをされたことに端を発し、また最澄や源義経などもお参りされ、現在も多くのスポーツ選手や政治家が足を運びご利益を仰がれているそうです。
インスタグラムの記事でこちらを知ってから、ずっと行ってみたかったのです😊
357メートルの赤神山に建立された神社は、登山口から742段の階段が続きます。
が。我が家のワンコは散歩嫌い、ということで 祈祷殿前の中腹駐車場まで車で参りました。
それでも、ひぃひぃ言いながら急な斜面に沿った200段あまりの階段を昇り、本殿手前にある夫婦岩の間を通ります。
夫婦岩は太郎坊宮のご神体で、良い心の持ち主が、願い事を念じて岩の間を通ると願い事が叶い、悪い心の持ち主が通ると、岩にはさまれてしまうといわれています。また、神が作り天狗が住んだと言われ、通り抜けることで神通力とご利益を得られると信じられてきたそうです。
無事に夫とワンコと共に通り抜けることができ(← いやぁ~よかった!!笑)
本殿でお参りさせて頂きました。
本殿からは、東近江市の風景が一望でき、信長もこのあたりを通ったりしたのかしら、と歴史に想いをはせました。
試合が近い子供には、霊長類最強女子レスリングの吉田沙保里選手と同じお守りを頂き、
私は御朱印を頂きました。朱に金文字で、とってもかっこいい!
「克勝」とは「打ち勝つ」という意味で、いろんなことに打ち勝って行きたいです👊
まずは、甘いものの誘惑から・・・。🍰
陸上の桐生選手や楽天イーグルスの則本選手も太郎坊宮の勝守りを持たれているそうです。
幸運を授かりますように~🤗
ちなみに桐生選手は、トレーニングで登山口から742段の階段を10往復されるとか・・・。ひえぇぇぇぇ・・・。