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2015年最後のブログである(たぶん)。
2007年9月21日の内田樹さんのテクストを紹介する。
教育現場の実情をほとんど知らない人たちでも、とりあえず教員の悪口さえ言っていれば、それなりに批評性があるように見える。
そういう風潮がある。
誰だって「自分には学校のことがわかっている」と思えるからである。
でも、いま教育の現場で起きていることは悪いけれど「前代未聞」の事態である。
地殻変動的な変化が起きている。
教育現場を批判している人々を含んだ社会構造全体の「ゆがみ」が学校という特異点において拡大されたしかたで露出しているのである。
だから、自分は「ふつう」だと思っている人が学校の「異常」を批判するというスキームを採用する限り、学校で何が起きているかは彼にはわからない。
社会全体が病んでいるとき、社会のもっとも弱い環である子どもを通じて社会の病はもっとも剥き出しのかたちで露出する。
エレベーターが落下しているときに、「落ちているのは誰だ?」というような詮索をしてもしかたがない。
「全員が落ちている」という現状認識を共有するまでエレベーターの落下を止める方策を論じる機会は到来しない。
そういうものである。
「教育再生会議」というのは、いまにして思えば含蓄のあるネーミングであった。
「再生」という以上、教育は「死んでいた」のである。
この認識はある意味で正しい。
教育現場が死んでいるということは、教育理論も、教育行政も、政府主導の教育改革も、およそこれまで教育について語られてきた言説となされた実践のほとんどは「死んでいた」ということである。
残念ながら、教育再生会議はそこまでは知恵が回らなかった。
というのは、会議に招集された「有識者」たちは全員がこの「教育の死」に加担してきたことを否認したからである。
まずその事実を認め、自分たちがそれまで行ってきた教育実践はこの事態の到来を防ぐことができなかった点について程度の差はあれ有罪であるという「有責感の自覚」から会議はスタートすべきだったと思う。
しかし、彼らはそうする代わりに「実現されなかった正しさ」の代弁者という立場を取った。
それでは「教育の死」が彼ら自身をもまきこんだ巨大な構造的な問題である可能性には思い至ることができない。
人はそのようにして構造的無知の立場を先取してしまう。
ショートスパンの「正しさ」を手に入れる代償に、ロングスパンの「無知」を呼び入れてしまうのである。
人間は不注意から愚鈍になるのではない。
愚鈍さはつねに努力の成果である。
私が教員たちの集まりに可能性を感じるのは、ここが「教育危機を誰か自分以外の誰かのせいにする」余地がない考えうるほとんど唯一の場だからである。
現場の教員の現実認識がメディア知識人よりすぐれているのは、彼らは「何が起きているのか、実は自分たちにはよくわかっていないということをわかっている」点にある。
メディア知識人は教育について「そこで何が起きているのか熟知しているような顔」をしている。
だからきわめて切れ味よく、危機の原因が何であって、それを補正するためには何をすればいいのかをぺらぺらと説明してくれる(もちろん、彼らが言うようなシンプルな政策で教育危機はどうにもならない)。
現場の強みは「教育危機のせいで現に困っている」ということである。
メディア知識人や文教族の政治家は本音を言えば、教育危機で別に困っているわけではない。
むしろ「出番」が増えて、メディアで顔を売り、原稿料を荒稼ぎする絶好の機会である。
学校で何が起きようと、そんなことは彼らにとってはどうでもよいことである。
だが、教員にとって教育危機はダイレクトに血圧が上がり、胃に穴が開き、血尿が出る具体的な問題である。
彼らの血圧を下げ、胃の粘膜にやさしく、腎臓への負担をやわらげるものであり、かつ彼らを説得できるだけ現実的経験に裏付けられたリアルなことばしかこの場では通用しない。
だから、私は教員たちを前にして教育危機の実相とそれへの対処について論じることを一種の「テスト」だと思っているのである。
本日の講演は「なぜ若者は労働のモチベーションを維持できないのか?」
これに関しては先日『文藝春秋special』という媒体に文章を書いたので、これをマクラにして90分間話す。
参考のために文春に寄稿したものを採録しておこう。もう出版されてだいぶ経つからよろしいであろう。
「やりがいのある仕事」を求めて短期間に離職・転職を繰り返す若者が増えている。ニートや非正規雇用が問題になるときにも、「やりがい」という言葉が繰り返し口にされる。「若者にもっと『やりがいのある仕事』を制度的に提供できれば、問題は解決する」という言い方をするメディア知識人も少なくない。
だが、「やりがいのある仕事」とは何のことなのか。
この語の語義について、国民的合意は存在するのだろうか。私は違うと思う。そして、同一語を別の意味に使っていることが、事態を混乱させているのではないかと思っている。
ある年代から上にとって、「やりがいのある仕事」というのは、「どこかで誰かの役に立っている仕事」のことを意味している。おのれ労苦の「受益者」がどこかにおり、その笑顔や感謝を想像することが労働のモチベーションを担保する。それが「やりがい」という語の意味だったはずである。
だが、この定義は若い世代にはもう適用できない。というのは、今ではどうやら個人の努力がもたらす利得を「私ひとり」が排他的に占有できる仕事のことを「やりがいのある仕事」と呼ぶ習慣が定着しているようだからである。
「受益者が私ひとり」であるような仕事を「やりがいのある仕事」と呼ぶ不思議な労働観が生まれたのにはもちろん理由がある。それは「受験勉強」の経験が涵養したものである。
受験勉強では努力と成果の間に「正の相関」があり、個人的努力の成果は本人が100%占有する。一生懸命勉強をして入試で高得点を取ったので、あまり勉強していなかった隣席のヤマダくんもその「余沢」に浴していっしょに合格できた、というようなことは受験勉強の場面では絶対に起こらない。
けれども、私たちの日々の仕事の現場ではむしろそちらの方が常態なのである。仕事のほとんどは集団の営為であり、利益は仲間の間で分配され、リスクはヘッジされる。人間的労働は集団的に行われることで効率を高め、危機を回避するメカニズムだからである。
受験勉強は将来の労働者を類別・序列化するためのシステムではあるが、それ自体は労働ではない。それを同一視して、受験勉強をする気分で労働の現場に踏み込んでくる若者は仰天してしまうのである。どうして、ここでは自分の努力の成果が自分に専一的にリターンされないのか?受験勉強的「成果主義」になじんだ子どもは、自分の努力が固有名での達成としてはカウントされず、集団で(それもろくな働きをしていない人間も含めて)分配しなければならないという「不条理」が理解できない。
しかし、若者たちの多くはアルバイトをしているではないか、というご意見があるだろう。あれは労働ではないのか、と。
残念ながら「バイト」は労働の条件を備えていない。というのは、あれはモジュール化・マニュアル化された労働の「断片」に過ぎず、アルバイト労働は断片化されることで互換性を確保している。それゆえ、バイト労働者には労働契約に規定された以外の労働をすることが要求されない。だから、彼らは「自分の仕事」の境界線の外に生じたミスやトラブルを「自分の仕事」として引き受ける習慣がない。
しかし、ビジネスの現場では、ミスはしばしば「誰の領域でもないグレーゾーン」に発生する。「自分の仕事」ではないのだけれど、とりあえず片付けておくか・・・という「よけいなお節介」によってシステムはしばしば致命的なクラッシュを回避している。でも、彼がシステムを救ったという事実は前景化しない(「何も起きなかった」というのが彼の達成したことだからである)。多大の貢献をしながら、成果としては評価されない。この事実を多くの若者は不合理だと感じる。
受験勉強とバイトという二種類の「ワーク」を通じて労働というものを理解してきた子どもたちには「成人の労働」の意味がよくわからない。
成人の労働の本質は、個人の努力が集団の達成に読み替えられる変換のうちに存する。自分の努力の成果が、できるだけ多くの他者に利益として分配されることを求めるような「特異なメンタリティ」によって成人の労働は動機づけられている。それが納得できないという人は成人の労働には向かない。事実、多くの若者たちが「三年で辞める」のはそのせいである。
「やりがい」を求めて離職転職する若者たちの多くは個人的努力の成果を誰ともシェアせず独占できる仕事に就こうとする。たしかに才能があれば、起業家や投資家や作家やアーティストや医師や弁護士になれるかもしれない。けれども、「個人的努力の成果を占有できる」ということは、裏から言えば「リスクを全部一人で負わなければならない」ということである。どれほどスマートでタフな人間も天災や政変や疫病のようなリスク・ファクターのすべてを回避することはできない。利益を分配する代わりにリスクをヘッジしてくれる集団への帰属を拒否する人間は一回の失敗ですべてを失う可能性を勘定に入れておいた方がいい。
私たちが労働するのは自己実現のためでも、適正な評価を得るためでも、クリエイティヴであるためでもない、生き延びるためである。成人の労働ができるだけ多くの他者に利益を分配することを喜びと感じるような「特異なメンタリティ」を私たちに要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである。この代価は決して高いものだと私には思われない。
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