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みなさん,あけましておめでとうございます。
2016年も「なら法律事務所」をよろしくお願いいたします。
2015年の最後のブログは,内田樹さんのテクストでした。
2016年の最初のブログも内田樹さんです。
内田樹さんが,2007年11月1日に書いたテクストを紹介します。
電車で行き来したので、その間に車中で、岩村暢子さんの本『普通の家族がいちばん怖い』(新潮社、2007年)(アダチさんが送ってくれた)を読む。
岩村さんは「スティーブン・キングより怖い」とかの養老先生をして言わしめたほどに怖い本を書く人である。
『変わる家族 変わる食卓』(2003年、勁草書房)は主婦数百人を対象に、「一日三食一週間分連続で、毎日の食卓に載ったものについて、使用食材の入手経路やメニュー決定理由、作り方、食べ方、食べた人、食べた時間などを日記と写真で記録してもらう」ものである。
これが怖い。
どう怖いかは実物を徴されたい。
体温が二度くらい下がる。
「ふつうのうち」でこんなものをこんなふうに食べていて日本社会がこの先続くのであろうかと不安になる。
この本の続きが『〈現代家族〉の誕生』(2005年、勁草書房)で、これはさきの調査で集められた主婦たちのメニューをその母親たち世代に見せて感想を聞いたものである。
「幼稚園の娘の朝食はカップ麺とプチトマト、前日はふりかけご飯と野菜ジュース。父は朝抜きで出社。母と息子はカップ麺。3人が食べたカップ麺の種類はばらばら、食べた時間もばらばら」「夕食は昨夜の残りとコンビニ弁当」「母と息子と娘の昼食は手作りカステラとカップ麺、残り物のブロッコリー、胡瓜の酢の物」などなどのメニューを見せられた60-70代の母たちは「こんなことをしているのは、ごく一部の人にちがいない」「これは子どものころからいい加減な食生活をしてきた特殊な人でしょう」といった反応を一様に示した。
「これはあなたの実の娘さんの作ったご飯です」と教えるとみなさん絶句されるそうである。
どうして娘たちがこんな悲惨な食生活をしているかというと、母親たちが彼女たちの娘に料理を教える必要を感じなかったからである。
母の世代からしてすでに「料理なんかどうでもいい」(それより学歴やキャリア形成が大事)がと思っていたのである。
食生活の崩壊は実は3世代がかりの「総力」をあげた努力の成果なのである。
これを「達成」といわずして何と言おうか(なんだか既視感のある言い回しであるが)。
これに似たことを三砂ちづるさんも『オニババ化する女たち』(光文社新書、2004年)の中で指摘していた。
出産育児についていまの30-40代の女性に普及している思想(妊娠出産を「不快な出来事」ととらえる発想)はその母親たちの世代から受け継いだものである。
「六十代、七十代の女性たちの多くは、自分たちのしてきた結婚や出産、そして夫との関係を、『楽しかった』と言いきれるようなものとは考えていないようなのです。『あんな結婚ならしなければよかった』『娘たちは出産を避けて通れるものならそうしてほしい』とさえ思っています。そしてそのような考え方は、現在の二十代から四十代の女性に見事に反映しているようです。」(29頁)
三砂さんが出産育児について指摘していることと、岩村さんが食生活について指摘していることはかなりの部分が重なり合う。
結婚、出産、育児、家事労働など、総じて家庭生活を成り立たせるために不可欠の諸活動は「アンペイド・ワーク(「父権制社会において男性に社会的リソースを占有させるために女性に強制された労働」)」にカテゴライズされるべきものであり、それゆえ女性たちはできる限りこの負荷を軽減し(理想的にはゼロにして)、一方できる限り多くの活動を「自己表現」「自己実現」に資するもの、できれば「有償」たらしめるべきであるというのが私たちの時代を支配している「男女共同参画社会」イデオロギーである。
別に誰に押しつけられたわけでもなく、私たちが嬉々として選びとってきたものである。
この食卓は日本人が総力を挙げて三世代にわたる努力の末に「達成」したものなのである。
クリスマスと正月料理に調査対象を絞った岩村さんの最近刊の本の中でいちばん怖かった話。
「クリスマスに家の窓やベランダにイリュミネーションを飾り立てる家」についての統計である。
「出した年賀状の枚数は電飾をする家(平均134.3枚)の方が電飾をしない家(平均113.3枚)より多くて、家族の写真入り年賀状を出す割合もやや高い。外へ向けて家族をアピールしたい気持ちがやはり強いということであろうか。だが、それよりも電飾をする家と電飾をしない家を比較すると、こんな違いが見えてきて興味深い。
クリスマス料理の種類も手作り率も、クリスマスケーキを手作りする率(電飾あり家庭6.1%、電飾なし家庭20.0%)も、電飾している家の方が低い。そして御節はほとんど全品目にわたって、電飾をしている家の方が手作り率が低く(例:「煮しめ」は、電飾あり家庭29.2%、電飾なし家庭60.8%)、御節の品目数自体少ないし、主婦が雑煮を作っている率も少ない。また自宅で家族で御節を食べている率(電飾あり家庭58.8%、電飾なし家庭70.9%)も低い。
さらに言えば、電飾している家では、親子一緒にクリスマスイベントに参加することも少なく(電飾あり家庭56.0%、電飾なし家庭82.4%)、親族と一緒にクリスマスの会食を楽しむ率も低く(電飾あり家庭4%、電飾なし家庭11.8%)、夫婦間でクリスマスにプレゼントし合う率も低い(電飾あり家庭8.8%、電飾なし家庭13.9%)。」(197-8頁)
まことに「興味深い」
岩村さんが指摘しているのは、外に向けて電飾をしてにぎやかにクリスマスを言祝いでいるかに見える家の方が、そうでない家よりも「家族一緒に」「仲良く」している率が低いということである。
私も「そうだろうな」と思う。
このような家の親たちの主たる関心は家族それ自身よりもむしろ、「この家族が外からどう見えるか」にあるからである。
「家族のひとりひとりの幸福や満足」よりも、「家庭が他人から見て幸福であるように見えること」が優先的に追求されている
それは「家庭の幸福」というものがもっぱら「社会的成功」の記号として機能しているということである。
そういう家ではおそらくすべての家族メンバーが「社会的成功の記号」として機能することを他のメンバーから期待されることになるだろう。
年収や学歴や特技など外形的・数値的なものしか記号的には役に立たない。
記号の条件は「誰が見てもすぐにそれとわかる」ということだからである。
「どこでも寝られる」とか「何でも食べられる」とか「誰ともすぐ友だちになれる」とか「相手の気持ちを配慮できる」というような資質は外形的には無徴候であるから、記号的には役に立たない。
だから、そのような能力の開発には現代の家族たちは誰も資源を投じない。
悲しい時代である。
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