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内田樹さんが,2008年3月5日に書いた家族に関するテクストを紹介する。
どうぞ。
人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されている。
そのために言語があり、儀礼がある。
人間の生理過程が「飢餓ベース」であり、共同体原理が「弱者ベース」であるように、親族は「謎ベース」である。
親子であれ配偶者であれ、「何を考えているのかよくわからない」ままでも基本的なサービスの供与には支障がないように親族制度は設計されている。
成員同士が互いの胸中をすみずみまで理解できており、成員間につねに愛情がみなぎっているような関係の上ではじめて機能するものとして家族を観念するならば、この世にうまくいっている家族などというものは原理的に存在しない。
原理的に存在しえないものを「家族」と定義しておいて、その上で「家族は解体した」とか「家族は失われた」というのはまるでナンセンスなことである。
変わったのは家族ではなく、家族の定義である。
誰が変えたか知らないけれど、ほんらい家族というのはもっと表層的で単純なものである。
成員は儀礼を守ることを要求される。
以上。
である。
それを愛だの理解だの共感だの思いやりだのとよけいな条件を加算するから家族を維持することが困難になってしまったのである。
現在、家族を形成している方々は総じてたいへん不満顔である。
家族間に理解がない、愛がない、共感がない、価値観が一致しない、美意識が一致しない、信教が一致しない、政治イデオロギーが一致しない・・・だから「ダメ」なんだと結論する。
そのような条件であれば、この世に幸福な家族がひとつとして存在しなくて当たり前である。
家族の条件というのは家族の儀礼を守ること、それだけである。
それがクリアーできていれば、もうオッケーである。
朝起きたら「おはようございます」と言い、誰かが出かけるときは「いってきます」「いってらっしゃい」と言い、誰かが帰ってきたら「ただいま」「おかえりなさい」と言い、ご飯を食べるときは「いただきます」「ごちそうさま」と言い、寝るときは「おやすみなさい」と言いかわす。
家族の儀礼のそれが全部である。
それができれば愛も理解も要らない。
私はそういう意見である。
家族の間には愛情も理解も不要である。
必要なのは家族の儀礼に対する遵法的態度である。
家族と言ったって、ほんとのところは「よくわからない人」である。
とりあえずわかっているのは、「この人もまた私同様に家族の儀礼を守る人だ」ということだけである。
だから敬語を使う。
何を考えているのかわからないときにはたまには「何をお考えなのですか?」と訊いてみる。
訊いてみたらたいへん単純なことだった場合もある(「いや、綿棒どこ置いたかな・・・と思って」とか「昨日の晩御飯って、焼きそばだったっけ?」とか)し、訊いてみてもまるでわからない場合もある(訊かれた本人も自分が何を考えているのかわかっていないからである)。
「私のことを愛していますか?」と心配だったら訊いてもいい。
もちろん、こういう場合には「もちろん愛しているよ。どうして、そんなこと訊くの?」と答えることが「家族の儀礼」で決まっているので、そういう返事がくる。
私はそれだけで十分だと思う。
どうして「家族の儀礼を守らなくちゃいけないの?」という問いには「昔からそう決まっているから」と答えればよろしい。
家族というのはどうしてそのようなものがあるか、その起源についてはよくわかっていない社会制度である。
弱者が共同体をつくることで生き延びる確率を高めようとしたのであろうということしかわからない。
世界に二人といない知己を得たり、めくるめくエロスの極致を経験したりするためのものではない。
もちろんそういうことが副次的に「おまけ」でついてくれば、それに越したことはないが、それはいわば「レクサス買ったら、ドライバーズシートに『腰もみマッサージ機能』がついていたぜ」くらいに「おまけ」的なものである。
どうも世間の方は勘違いをされているのではないか。
愛と共感に基礎づけられ、家族同士が世界の誰よりも深く理解し合い、配偶者たちは夜毎エロスの極限を経験している・・・というようなものを「理想の家族」とするならば、現実のすべての家族はただちに遺棄されて、人々は「理想の家族」めざして「家族探しの旅」にさまよい出なければならぬであろう。
当今の家族論の類を読んでいると、どうも「この自転車にはバックミラーがついてない」とか「この中華料理屋にはなぜクラブハウスサンドイッチがないのだ」(裏軒にはあるが)というような「木によって魚を求む」議論をしているような気がしてならない。
家族は「ひとりでは生きられない」弱者が生き延びるための装置である。
家族成員が強者であることを要求するような家族論ははなから論の立て方が間違っているのである。
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