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小学生に英語を必修させる必要があるのか? ☆ あさもりのりひこ №168

2008年2月17日の内田樹さんのテクストを紹介する。

どおぞ。

 

 

文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。

愚かなことである。

日本語がこれだけできなくなっている知的状況で二カ国語を学ばせる意味がどれほどあるのか。

特にオーラル中心の語学教育の子どものメンタリティへの影響については、もうすこし真剣に考えた方がよろしいのではないか。

英語運用能力を重視する教育機関で何が起きているか、みなさんはご存じであろうか。

論理的には当たり前のことであるが、それは「英語運用能力の高さにもとづく人間的価値のランキング」である。

「英語が他の教科に比較して際だってよくできる」という条件をクリアーしてその教育機関に入学した学生は、当然ながら、「英語ができることは、きわだってすぐれた人間的能力である」というイデオロギーのかたくなな信奉者になる。

これはごく自然なことであるから非とするには当たらない。

けれども、そのような学生たちの教場でのふるまいは場合によっては、いささか常軌を逸してくる。

東京の某一流私学は「英語だけで授業をする学部」を新設した。

国際人を育てるためである。

ところがこの学部では授業がうまく成立しない。

というのはここの学生たちは「一番英語がうまい人間」を知的位階の最上位に置いてしまうことを習慣づけられているので、教壇に立っている日本人教師よりもフロアにいるネイティヴの留学生や帰国子女の方が英語が流暢な場合には、教師よりも「発音のいい人間」の意見に従う傾向があるからである。

それも無理はない。

現に私自身の教壇における知的威信の80%くらいは私の日本語話者としての語彙の豊富さと落語に学んだ滑舌のよさによって担保されているからである。

同一のコンテンツであっても、私が仮に外国人であり、学習した日本語で論じた場合には、どれほど文法的に正確な日本語で講じても、学生たちはそれほどには聞き入ってはくれぬであろう。

というわけで、そういうところを卒業した学生たちは「英語がぺらぺらしゃべれる人の告げる情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を刷り込まれて実社会に登場する。

これはもちろんゴールドマンサックスとかウォルマートとかの日本支社のマネージャーからすればたいへん雇用することの楽な労働者であるが、そうではない会社ではあまり役に立たない。

なにしろ、そういう会社では彼または彼女より英語がうまい人間があまりいないからである。

しかるに彼らは「英語がうまい人間の発信する情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を血肉化しているので、いきおい上司や先輩やクライアントよりも「自分の言うことの重要性と客観性を過大評価する」人間となる。

こういう人間は私どもの社会では総じて「バカ」というふうに呼称される傾向にあるので、彼らの企業内部的身分はあまりプロミシングなものとはならない。

けにゃらら大学の総合政策学部はたいへんに英語のよくできる学生を世に送り出したのであるが、あまりに英語運用能力がすぐれ上司に経営学の講義をしてくれたりするのでそれほど英語もできないしMBAも持っていない上司たちからは「使いにくい」ということで現在では企業サイドからは「できれば採用したくない学部」にランクされてしまった。

りにゃらら大学の総合政策学部はそのあとを追って創設されたのであるが、今年の志願者数を見るとなんと前年比39%という悲惨な数値であった。

たにゃらら大学も英語運用能力と国際性の育成を謳って創設されたが、その卒業生の事績として最初に新聞に出たのは放火犯であった(それ以後彼以外の卒業生についてメディアで報じられた例を私は知らないので、その大学は私にとっては今のところ「第一期生で放火犯を出した大学」のままである)。

わにゃらら大学では英語能力だけで人間を価値づける学生を組織的に輩出しそうな気配で、その学部で現に教鞭を執っている先生から「このままではどうなるか心配です」とうかがったことがある。

ともあれ、外国語運用能力をあまり重視することに私はひさしく外国語で飯を食ってきた人間(ほんとに食っていたのよ)の一人として懐疑的である。

外国語なんて大きくなってからで十分である。

子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。

外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。

それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。

その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。

けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。

外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。

役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。

その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。