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言論の自由に関する2008年4月5日の内田樹さんのテキストを紹介します。
どおぞ。
言論の自由について思うことを述べる。
繰り返し書いていることだが、たいせつなことなので、もう一度書く。
言論の自由とは
私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。
その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。
ただそれだけのことである。
だが、ほとんどの人は「言論の自由」を前段だけに限定してとらえており、後段の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件を言い落としている。
私は「言論の自由」が持続可能な社会的規範であり続けるためには、後段の条件が不可避であろうと思う。
「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする」という条件のどこがそれほど重要なのか。
それはこの条件が「敬語で書かれていること」である。
それは擬制的に「理非の判断を下す方々」を論争の当事者よりも「上に置く」ということである。
「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。理非の判断は聴いているお前らが勝手に下せばいい」というワーディングで語られたとき、「言論の自由」はその要件を満たさない。
かつてフランスで歴史修正主義をめぐる論争があった。
ロベール・フォーリソンという「自称歴史家」が「アウシュヴィッツにガス室は存在しない。なぜなら、それを証明するナチスの公文書が存在しないからである。ユダヤ人はチフスで死んだのである」という奇怪な論を立てた。
その書物の序文をノーム・チョムスキーが書いた。
チョムスキーは「私はこの著者の論に賛成ではないし、論証も不備であると思う。しかし、どのように人を不快にする主張であろうと、それを公表する権利を私は支持する」と書いた。
私はそれを読みながら、チョムスキーの言うことは正しいけれど、いささか無理があると思った。
そこには原理に対する敬意はあったけれど、当の本を読んで、その理非を判断する人々の知性に対する敬意は感じられなかったからである。
「私を批判する言説であっても、私はそれを公表する権利を擁護する」と言ったのはヴォルテールである(文言は定かではないが、だいたいそんな内容のことである)。
これは言論の自由のマクシムとして広く人口に膾炙しているが、私はいささかの物足りなさを感じる。
ここには「私は『私を批判する言説であっても、私はそれを公表する権利を擁護する』という立場なんですけれど、これについてみなさんはどうご判断されますか?」というメタ・メッセージが欠けているような気がするのである。
自分の意見を言い切っておしまい、ということだとそれでは言論の自由にならないのではないか。
いや、原理的にはなるのだろうが、社会制度として、もちこたえることができないのではないか。
私はそういうふうに考えている。
現にヴォルテールは自ら掲げた「言論の自由」の原理に基づいて、激しい反ユダヤ主義的な文書を書き連ねた。
けれども、その時代のユダヤ人たちにはヴォルテールに反論する機会は事実上与えられていなかったのである。
反論する機会を持たない人を激しく攻撃することをも「言論の自由」だと言い切れる人間はやはりどこか病んでいると私は思う。
原理や制度は正しければいいというものではない。
それを機能させ、持続させ、活用し、そこから豊かなものを引き出すために原理や制度を人間は作り出したのである。
ヴォルテールの原理主義に対置されるものとして、私はグルーチョ・マルクスの反原理主義的構えを思い出す。
グルーチョは「私を入会させるようなクラブに私は入会したくない」と言った。
これは「当クラブはどのような人にも開かれている」という原理とも「当クラブは誰を入会させ誰を拒否するかの権利を保持する」という原理とも次元を異にしている。
それは「クラブの掲げる原理」に対する批評を原理のさらに上に置く、ということである。
そして、その批評は「批評者自身に対する批評(今の場合であれば、グルーチョの自虐)」を含むことによってみずからが原理化することを回避しているのである。
ややこしい話ですまない。
私が言いたいのは、「言論の自由」を機能させるためには、「言論の自由」の原理主義に対する反原理的な批評性が不可欠だろうということである。
と言い換えても少しもわかりやすくならないですね。
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