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その人のその言葉は、私の中から自然発生的には絶対に生まれてこないのだけれど、その言葉に触れたことによって、私の中の何かが救済され、何か凍り付いていたものが蘇り、止まっていたものが動き出す、そういう言葉がある。
そういうものに出会うために私は翻訳をする。
なるほど。
2008年6月9日の内田樹さんのテクストを紹介する。
どおぞ。
電車の中で三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館、2003年)を読む。
三浦さんによれば、90年代から「影響を受けたのは村上春樹と柴田元幸」ということを自己申告する若い作家たちが続々と登場してきているという話。
村上春樹は作家としては例外的に大量の翻訳を長期にわたりコンスタントに行っている人である。
柴田元幸は大学教師としては例外的に大量の翻訳を(以下同文)。
この二人によってアメリカ現代文学へのアクセスは親密さを増したことを否定する人はいない。
でも、問題はそれよりも「翻訳をする」ということのもつ見落とされがちな本質的な機能について、彼らの仕事が私たちに再考を促しているということだろう。
例えば、私のいたフランス文学の世界では翻訳というのはほとんど業績としてカウントされなかった(今でも変わらない)。
1000頁の翻訳よりも10頁の研究論文の方がポイントが高いのである。
だったら、努力と成果の相関をもとめる合理的な精神がどうして翻訳を選択しようか。
けれども、翻訳というのはまさにそういう「業界内部的合理性」のようなものを根底から突き崩す作業なのである。
柴田さんは三浦さんとのインタビューでこんなふうに答えている。
「じつは推敲の最中にけっこうはじめて理解したりするんですよね。こういう意味だったのかというのが訳していてわかることがあります。僕、学生からここはどういう意味ですかって訊かれて答えられないことってすごく多いんです。ふだんはいちいちそこまで考えていない。訳さないとわからないというすごく能率の悪い頭になっていて、小林康夫さんと話していてどうして柴田さんて翻訳なんてするのといわれて、訳さないとわからないからっていったら小林さんは、僕は読んだらわかるから翻訳って必要ないんだよねっていってました。要するに小林さんにとって翻訳は人のためにやるものなんですね。僕ももちろん読者のためにやるわけですけれど、訳すことで自分もわかるということは大いにありますね。」(220頁)
私は「柴田元幸に一票」である。
私もまた「訳さないとわからない」人間である。
自分じゃない人間の自分とはまったく違う論理の運びや感情の動きに同調するときに、自分の操る日本語そのものを変えるというのは、私にとっていちばん手堅い方法である。
自分が自分のままでいて、それでも「わかる」ものは別に他人の書いた本なんか読まなくてもすでに「わかっている」ことである。
「自分がもうわかっていること」のリストを長くしても私にはあまり面白くない。
自分が自分以外のものに擬似的になってみないとわからないことに私は興味がある。
もちろんその「以外」にもちゃんと条件はある。
「同調できる程度の異他性」である。
その人のその言葉は、私の中から自然発生的には絶対に生まれてこないのだけれど、その言葉に触れたことによって、私の中の何かが救済され、何か凍り付いていたものが蘇り、止まっていたものが動き出す、そういう言葉がある。
そういうものに出会うために私は翻訳をする。
たぶん柴田さんも(村上さんも)それに近いのじゃないかと思う。
家に帰ってきたら、誤訳について書かれた書評の抜き刷りが届いていた。
私の本の誤訳じゃなくて、野崎歓さんの新訳の『赤と黒』(光文社古典文庫)の誤訳についてスタンダール学者のS川さんが指摘しているのである。
読んでいてちょっとつらくなってきた。
学者が同業者の誤訳について指摘するというのは、理論上の論争とは質が違う。
「おまえの料理はまずい」というコメントと、「お前の料理は腐った材料が使ってある」というコメントくらいに違いがある。
だから、誤訳をめぐる同業者の論争というのはあまり起こらない。
誤訳をめぐるバトルは公開されると「死闘」になるからである。
ふつうは、そういうことにならないように、業界内部的に「あれはひどいねえ」「ほんとですね」というような話が行き交うくらいである。
そのうちひっそりと絶版になり、事なきを得るのである。
そもそも誤訳というのはたいていの場合「何を言っているのかわからない」というかたちで現象する。
ふつうの読者は「何を言っているのかわからない」箇所は飛ばすので、誤訳の本を読んで「そうか、そうだったのか!」とはなはだしい勘違いする読者というのはまずいない。
だから、誤訳のもたらす実害というのは思われるより少ないのである。
翻訳の高い質を求めるのは合理的な要求である。
けれども、ところどころまだらに「よく意味のわからないところが残る」というのは翻訳の宿命である(私のレヴィナス翻訳の場合は「ところどころ」どころか30%くらいは意味不明である。訳者が意味を理解できない箇所を「意味のとおる日本語」にすることはできない)。
日本人が日本語で書いたものだって、ところどころ意味がわからないわけであるから、それくらいは許容範囲であろうと私は思っている。
ここまでは許容範囲だが、ここから先は許容範囲じゃないというようなデジタルな線は存在しない(たぶん)。
むしろ、誤訳の問題でこじれるのは「ここ間違ってますよ」という指摘に対して「あ、どうもすみません」というレスポンスがあるかないかだろう。
「伏してご叱正を待つ」とどんな訳者もだいたい「あとがき」に書いているけれど、あれは修辞ではなくて、ほんとうに待っているのである。
私のところにもじゃんじゃん「ご叱正」が来る。
来る度に「すみません!」と平伏して、すぐに直す。
私の訳稿を見て、編集者や校閲の人が「ここ違いますよ」と言っているのといっしょである。
そういう双方向的な公開性が担保されていて、無限の修正に対して開かれているなら、誤訳は原理的には「程度問題」である。
みんなでよい翻訳を作り上げてゆく、ということでよろしいのではないか。
今回の野崎訳をめぐる問題は「指摘と修正」の円滑なコミュニケーションが成り立たなかったことが原因のように私には思われた。
人に「あなたは間違っている」といわれて「はいそうですか」というのはとてもむずかしい。
それが人情である。
それがわかっている以上、「あなたは間違っている」というときには、どうやったら「はい、そうですね。直しておきます」という即答が得られるか、その効率についての配慮もまた必要だろうと私は思う。
「誤訳を認めることで失われるもの」の値を吊り上げるのは、その意味では効率的ではない。
野崎歓さんは「翻訳なんて」顧みられない場所で黙々とフランス現代文学の翻訳という報われることの少ない仕事をしてきた人である。
翻訳好きの一人として、このできごとには心が痛む。
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