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「ものさし」では重さも、光量も、音響も、手触りも、時間も量れない。
世界の厚み深みについて理解を深めようと思ったら、手持ちの「ものさし」ですべてを計測しようとする習慣を捨てなければならない。
2008年6月12日の内田樹さんのテクストを紹介する。
どおぞ。
私たちの社会でいま急速に進行しているのは、「記号化の過剰」とでもいうべき事態ではないか。
そんな気がしたのである。
あらゆる人間的営為をことごとく数値化・定量化し、それを「格付け」するという操作に日本人がこれほど熱中したことがかつてあっただろうか。
私の記憶では、ない。
文科省が大学に提出を要求するペーパーの要求のうちいくつはもうほとんど「ものぐるひ」のレベルに達している。
そこには、「教育目的」と「教育方法」を記述し、そのプログラムがどのような「教育効果」をもたらしたかを数値を明らかにしたevidence based で述べよ、というようなことが平然と書かれている。
「授業を聴いているうちに、すとんと気持ちが片付きました」とか「眼からウロコが落ちました」とか「矢も楯もたまらず身体を動かしたくなりました」とか「なんだか猫にも話しかけたい気分になりました」とか、そういうのはどうやって教育効果として数値的にお示ししたらよろしいのであろうか。
いや、ほんとに。
教育のアウトカムのもっとも本質的な部分は数値的・外形的に表示することができない。
しかし、どうも官僚のみなさんにとって、数値的・外形的に表示できない教育的効果、あるいは「それが何を意味するのかを実定的な語法で語り得ない」教育効果は「存在しない」のと同義のようのである。
それと同じ事態は社会生活の全般に及んでいる。
子どもたちはさまざまな「おけいこごと」をさせられているが、親たちがそこに要求するのはつねに「努力と成果の相関が可視化されていること」である。
水泳教室のインストラクターをしている学生の話では子どもたちのクラスでは異常なほどの「レベルの細分化」が進んでいるそうである。
顔を水につけられたらレベルいくつ、足を床から放せたらレベルいくつ、というふうに水泳技術が「日進月歩」するさまをことごとく「数値で表示すること」を親たちは要求する。
デジタルな数字が変わることでしか、子どもの身体能力の変化が「わからない」という親の側の観察力の欠如を誰も咎めない。
これはきわめて危険な徴候だと私は思っている。
身体能力にもたらされる変化は本質的には計量不能だからである。
変化を計量するためには、座標軸のゼロに相当する「変化しない点」を想定しないといけない。相対的な変化量を確定するためには、「測定枠組み」そのものは変化してはならない。
だから、「スコア」や「タイム」が数値的に表示されるスポーツでは、「身体の使い方を根本的に変える」ということにつよい抵抗が働くのである。
身体運用OSそのものの「書き換え」に際しては、「何を測定してよいのかわからなくなる」ということが必ず起きる。
それまで自分が「能力」の指標だと理解していた度量衡が「無効になる」というのが、「ブレークスルー」ということだからである。
変化量を記号的・数値的に表示せよ、というルールは「ブレークスルー」というものがあることを想定していない。
価値評価の度量衡そのものが生成する「パラダイムシフト」を想定していない。
「ものさし」では重さも、光量も、音響も、手触りも、時間も量れない。
世界の厚み深みについて理解を深めようと思ったら、手持ちの「ものさし」ですべてを計測しようとする習慣を捨てなければならない。
そんな当たり前の理屈が通らない。
どこでも、自分の手持ちの、薄汚れた、ちびた「ものさし」で、この世のすべてのものを計量できると信じている人々に私は出会う。
「うつろなひと」a hollow man たち。
「うつろなひと」は記号で充満している(名越先生の「ホムンクルス」のような話だ)。
「うつろなひと」は、人間的営為のすべては計量可能であると信じる計量主義者であり、リソースは厳密に個人的能力に即して分配されるべきだと考える能力主義者であり、自分に本来帰属すべきリソースは「無能な他者によって不当に簒奪されている」と考える奪還論者である。
そのような人々で日本は埋め尽くされつつある。
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