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全共闘運動は政治的に何らかのプログラムがあったわけではない。
マルクス主義を掲げてはいたが、その運動は「科学的社会主義」とは無縁であった。
私の知る限り、その運動の中で「論理的実証性」や「推論の適切さ」が配慮されたことはない。
そこに横溢していたのは「やるっきゃねえ」とか「おとしまえをつける」とか「断固たる決意性」とか「中核魂」とか、ほとんど戦争末期的なワーディングであった。
2008年7月6日の内田樹さんのテクストを紹介する。
どおぞ。
少し前に大学院の「日本辺境論」で世代論を論じたことがあり、そのときに「60年安保世代」と「70年安保世代」の違いは奈辺に由来するかということを話した。
60年安保のときに運動を指導したのは当時20代後半から30代はじめ。つまり、1930年から35年生まれというあたりである。
敗戦のときに10歳から15歳。
国民学校で「撃ちてし止まむ」と教えられ、本土決戦に備えて竹槍の訓練をした少年たちは8月15日に「戦わない大人たち」を見て愕然とした。
彼らに軍国教育を施していた大人たちが一夜明けたら「民主ニッポン」の旗をにぎやかに振り始めたからである。
あの・・・・最後の一兵まで戦うんじゃなかったんですか。
「勝たずば断じて已むべからず」「生きて虜囚の辱を受けず」と起草した夫子ご本人が負けて「虜囚」の獄中にあるというのはどういうことなんでしょうか。
誰か説明してくれませんか。
誰も説明してくれなかった。
この「一夜にして大日本帝国の旗を下ろした先行世代」に対する「恥」の意識が60年安保闘争の底流にあると私は思う。
60年安保は反米ナショナリズムの闘争であるが、それは15年前に完遂されるべきだった「本土決戦」を幻想的なかたちで再生したものである。
ただ、その標的は今度はアメリカそのものではなく、「アメリカに迎合した日本人」たちに(具体的には戦前は満州国経営に辣腕を揮い、東条内閣の商工大臣の職にありA級戦犯として逮捕されながら、アメリカの反共戦略に乗じて総理大臣になった岸信介)向けられていた。
70年安保世代はそれよりずっと若い。運動に参加した人々はおおよそ1945年から50年生まれ。
戦中の飢えの経験も、教科書に墨を塗った経験もない。
小学校のときから「戦後民主主義」の揺籃のうちで、教師たちから「日本の未来は君たちのものだ」と言い聞かされて、気前のよい権限委譲の中で生きてきた世代である。
科学主義と民主主義をこの世代は胸一杯に吸って育った。
その世代がどうして「肉体」と「情念」と「怨恨」の政治思想にあれほど簡単に感染してしまったのかを説明するのはむずかしい。
1960年代末から70年代はじめにかけて、小劇場でもっとも好まれた主題は(今の人には想像もできないだろうが)満州と天皇であった。
おそらく「抑圧されたもの」が症状として回帰したのである。
養老先生が御殿下グラウンドに林立した数百本の「竹槍」を見たときに戦争末期の「本土決戦」を思い出して既視感を覚えたという。
全共闘運動はおそらく「完遂されなかった対米戦争」の二度目の幻想的なヴァージョンである。
全共闘運動は政治的に何らかのプログラムがあったわけではない。
マルクス主義を掲げてはいたが、その運動は「科学的社会主義」とは無縁であった。
私の知る限り、その運動の中で「論理的実証性」や「推論の適切さ」が配慮されたことはない。
そこに横溢していたのは「やるっきゃねえ」とか「おとしまえをつける」とか「断固たる決意性」とか「中核魂」とか、ほとんど戦争末期的なワーディングであった。
全共闘政治の装飾的記号はなによりも「旗」であった。
どのような小集団もまず自分たちの旗を作り、ヘルメットのカラーリングを考えた。
旗は闘争用の武器としては実効性がほとんどないが(重いだけである)、学生たちはそれを「軍旗」のように誇らしげに掲げた。
戦旗派、叛旗派といった党派名称そのものにも「旗」が入っていたし、戦旗派はデモのときに「一人一旗」という大胆なパフォーマンスを試みてオーディエンスを喜ばせたことがある。
全共闘の学生たちが熱狂的に支持した東映の任侠映画の鶴田浩二は元海軍航空隊で「特攻隊の生き残り」という名乗りをアイデンティティにしていたし、池部良は海軍中尉で南方戦線の生き残りである。自分たちより20歳以上年長のこれらの任侠俳優たちの「たたずまい」に当時の学生たちは深い共感を寄せたのである。
私はそれらの現象は(吉本隆明に従って)全共闘運動を「日本封建制の優性遺伝因子」の甦りと見立てることで説明可能だろうと思っている。
戦前の共産党幹部たちの獄中転向を分析した『転向論』で吉本はそれを「わが後進インテリゲンチャ」が西欧の政治思想や知識にとびつき、「日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている」ときに、彼らが「侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれた」ことと解釈した。
それから四半世紀経って、戦後日本が「侮りつくし、そこから離脱したと信じた日本的小情況」が、西欧の政治思想や哲学をたのしげに歌う戦後知識人たちの「足をすくう」ために戻ってきた。
私はそのようなものとして全共闘運動は思想史的に位置づけることが可能だろうと思う。
全共闘運動は日本人に「罰を与える」ために登場した。
それは何かを創造するためのものではなかった。だから、それは破壊すべきものを破壊し終えたと同時に消えた。
それ以後、「日本的小情況」は経済的繁栄がもたらす世俗的快楽とアメリカの覇権下の「属国の平和」という麻痺状態の中にゆっくり溶け込み、さしあたり脅威的なものであることを止めた。
やすやすと繁栄のうちに姿を消すことができるこの節度のなさのうちに「小情況」の「小」たる所以はある。
それから40年近くが経った。
二次にわたる安保闘争に類する政治的運動がこの後もう一度起こるかどうか、私にはわからない。
ネット右翼の出現や、「ロスト・ジェネレーション」の謳う「戦争待望論」はそのような「日本的小情況」の三度目の甦りの予兆なのかもしれない。
「強欲な老人たち」と「収奪される若者たち」という世代間対立図式は二次にわたる安保闘争のときに採用された図式に似ていなくもない。
しかし、この世代はロールモデルとして参照すべき、身体を備えた「日本封建制の優性遺伝因子」をみつけることができないでいる。
力業で記号的に「あるべき日本人」を表象することはできるかもしれないが、それが身体を欠如させている限り、政治的な指南力を持つことはないだろう。
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