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妄想の効用 ☆ あさもりのりひこ №181

想像したことが実現するのではない。

想像していたからこそ、実現したことがわかるのである。

真理というのはあらかじめ存在するのではなく、構築するものなのである。

宿命もそうである。

それは自由に空想する人の身にのみ到来するのである。

 

 ふぅ~む,なるほどぉ。

2008年7月8日の内田樹さんのテクストを紹介する。

どおぞ。

 

 

つねづね申し上げていることだが、妄想はたいせつである。

強く念じたことは実現する。

「それ、ほんとうですか?」と疑念をもつかたもおられるやもしれぬ。

ご安心ください。

これはほんとうである。

多田先生がそうおっしゃったのであるから、間違いない。

多田先生がそうおっしゃったのは、中村天風先生がそうおっしゃったのを聞いて、「天風先生がそうおっしゃるなら、間違いない」と思われたからである。

天風先生がそうおっしゃったのは、頭山満翁かカリアッパ師からそう聞いて「この人が言うなら間違いないだろう」と思われたからである。

「・・・先生がそうおっしゃったのだから間違いであるはずがない」という「宣告」だけが示され、その「基礎づけ」はいつまでも示されない。

これが真理の本質的な形式である。

別に私がそう言っているのではない。

ジャック・ラカンがそう言っているのである。

「おのれを権威とするあらゆる宣告は、その宣告以外にいかなる基礎づけも持たない。他のシニフィアンにおのれの基礎づけを求めても空しいことだ。シニフィアンはそのようにして基礎づけられた場所以外のどこにも出現しないからだ。(・・・) 『他者』の『他者』は存在しない。立法者(律法を制定したと主張する人間)が自分を何かの代理人であると自称したら、そいつは詐欺師である。

しかし、律法そのものは詐欺ではない。」(Jacques Lacan, Écrits I,Seuil,1966, p.174

「私は立法者である」と宣言する者がおのれの身元保証を別の誰かに求めたなら、その「身元保証人」こそが本来の「立法者」であることになるのだから、彼は地位を詐称していることになる。

だから、立法者の立てる律法の正統性の保証は、それが「律法として立てられた」という事実以外のどこにも求めてはならない。

しかし、そのことは律法の正統性を損なわない、そうラカンは言う。

ラカンがそう言うんだから間違いない。

という構造になっているのである。

真理というのはあらかじめ存在するのではなく、構築するものだからである。

おわかりかな。

強く念じたことは実現する。

これはほんとうである。

問題は「強く」という副詞にある。

「強く念じる」というと、多くの人は『HEROES』のヒロ・ナカムラくんのように眉間に皺を寄せてしかめっ面をするようなふるまいを想像するかもしれない。

それは違う。

「強く念じる」というのは「細部にわたって想像する」ということである。

細部にまでわたって想像するためには「具体的なもの」を描き出せなければならない。

数値や形容詞によって妄想することはできない。

「年収2000万円で、家賃30万円のマンションに暮らして、一本20000円の高級なワインを200ミリリットル飲んでいる未来の私」というようなものは想像できない。

想像できるのは、その部屋の間取りであり、家具の手触りであり、空気の匂いであり、ワインの風味であり、グラスの舌触りであり、嚥下するときの内臓の愉悦である。

それは数字や形容詞では描くことができない。

この想像には終わりがない。

その部屋の書棚にどんな本やCDが配架されており、クローゼットにはどんな洋服があり、食器はどんなものが揃い、ベランダの植物はどんな育ち具合であるか、というようなことを想像し始めると終わりがない。

ましてや、妻とか子とかいうものがそこに出てきて、会話なんかが始まったら、もうたいへんである。

想像には節度がないので、私たちは実に多くのことを想像してしまうからである。

きれいな女の子(恋人なのね)の哀しげな横顔であるとか、かすれた声でつぶやく言葉の切れ端であるとか、頬に触れる髪の毛の感触とか、そういうことを具体的に想像しはじめると切りがない、ということはおわかりいただけるであろうが、そういう「想像のストック」はたちまち膨大な量になる。

そして、ある日、「それと同じこと」がわが身に起きたときに私たちは「宿命の手に捉えられた」ことを確信するのである。

だって、想像した通りのことが起きたんだから。

これが宿命的な出来事でなくて何であろう。

以前にも書いたとおり、「私の夫になる人はトイレの置き本に『断腸亭日乗』と『若草物語』を並べておくような人」などということをうっかり妄想してしまった少女が、その十年後に、たまさか訪れた男友だちの家のトイレにその二冊が並んでいたのを見たりすると、「ああ、私が待っていたのはこの人だったのだ」という確信を得ることは避けがたいのである。

そのようにして、少年少女のときに具体的に細部にわたって妄想したことは高い確率で実現することになる。

ことの順逆を間違えてはいけない。

想像したことが実現するのではない。

想像していたからこそ、実現したことがわかるのである。

真理というのはあらかじめ存在するのではなく、構築するものなのである。

宿命もそうである。

それは自由に空想する人の身にのみ到来するのである。

 

そして、人間がその心身のパフォーマンスを最大化するのは、「私はいま宿命が導いた、いるべき場所、いるべき時に、いるべき人とともにいる」という確信に領されたときなのである。