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リーダーシップは涵養できるか? ☆ あさもりのりひこ №184

リーダーシップというのは「リーダー」にとっては必須のものであるが、リーダー以外の人間にとっては必須のものではない。

そして、ふつうの人間集団ではリーダーとリーダー以外の人間では、圧倒的に「リーダー以外の人間」の方が多い。

 

2008年8月20日の内田樹さんのテクストを紹介する。

どおぞ。

 

 

ある新聞からの電話取材で「女子大の存在意義」について訊かれる。

東京でお茶の水女子大、奈良女子大、津田塾、東京女子大、日本女子大の五大学の学長を集めて、女子大の存在意義についてのシンポジウムが先般あったそうで、それについてコメントを、ということである。

シンポジウムで学長さんたちはどういう結論になったんですかとお訊ねする。

女子大の存在意義は、「女子だけを集めると、男子に依存しない、リーダーシップのある女性を教育することができる」というのが合意点でした、と記者さんは言う。

伝聞であるから、これがそのままシンポジウムの結論だとは思わないが、そういう趣旨を含んでいたとすれば、ずいぶんと貧しい考え方だと言わねばならない。

当然ながら、私はそのようなロジックには同意することができない。

つねづね申し上げているように、私は「リーダーシップ」とか「エンパワーメント」とか「社会進出」とかいうことばで教育の目的を語ることを好まない。

好まないどころか、それこそが今日の教育崩壊の構造的な原因であると考えている。

このような言葉づかいの根底にあるのは、「国会議員とか、自治体の首長とか、上場企業の社長とかは偉い人であり、人間はすべからくそのような立場の人間になるように努力すべきである」という貧しくシンプルな「立身出世主義」(arrivisme)である。

もちろん私とて、そのような仕事の有用性を認めるにやぶさかではない。

だが、権力、財貨、情報、文化資本といったものを他人より多くもつことが人間の生きる目的であり、教育もまたその目的実現のために存在するという考え方を私は採らない。

リーダーシップというのは「リーダー」にとっては必須のものであるが、リーダー以外の人間にとっては必須のものではない。

そして、ふつうの人間集団ではリーダーとリーダー以外の人間では、圧倒的に「リーダー以外の人間」の方が多い。

だから、リーダーシップと同じように、「サブ・リーダーシップ」や、「リードされるシップ」や、「何かというとリーダーにあやつけるシップ」や、「あとはオレに任せてくれシップ」や、「どっと盛り上がりましょうシップ」や、「まあまあ、そんなにかりかりせんと。どや、ここはひとつナカとってやね調停シップ」など多様な「シップ」が共同体の機能的で健全な運転のためには必要である。

リーダー以外のこれらの「シップ」の重要性について、多少とでも組織で働いた経験のある社会人であれば、誰でも身に浸みて知っているはずである。

なのに、なぜ「リーダーシップ」だけが涵養の対象となり、それ以外の「シップ」に教育機関は資源の投入を惜しむのか。

私にはその理由がわからない。

全員がリーダーであるような共同体は存在しえない。

だとすると、「リーダーシップを涵養する教育機関」とは「リーダーシップ以外の組織人としての能力を評価しない教育機関」のことだということになる。

それでよろしいのか。

女子の「エンパワーメント」をめざし、「性差にかかわらず、高い社会的能力をもつ人間は、その能力にふさわしい社会的高位に位置づけられるべきだ」と主張する教育は、「性差にかかわらず、能力の劣る人間は、それにふさわしい社会的劣位に格付けされるべきである」という判断に同意するということでよろしいのか。

私はあまりよろしくないと思う。

だから、軽々に「リーダーシップの涵養」とか「エンパワーメント」とかいうことを教育目的に掲げていただきたくない。

 

そもそも、共同体において、リーダーシップというのは競合的に争奪されるべきものではない。

リーダーには集団ごとに別個の人間的資質が要求される。

例えば、ある集団においては、「人の話をよく聴いて合意形成をするのがうまい人」がリーダーに適しており、別の集団では「右顧左眄せず独断専行できる人」がリーダーに適しており、別の集団では「権謀術数に長け、子分を養うのがうまい人」がリーダーに適している。

これらの人間的資質を同一の教育プログラムによって育成することはできない。

逆に言えば、どのような集団であれ、コラボレーションを通じて何か共同的な仕事を成し遂げるという実践的目的を課されていさえすれば、「リーダーシップ」その他の集団に必須のさまざまな人間的資質の開発は、成員たち自身の相互教育を通じて果たされる。

別に教師があれこれの教育的プログラムを持ち出す要もない。

 

もし高等教育機関が生き延びるために、「より多くの権力、より多くの財貨、より多くの情報、より多くの文化資本」を卒業生に保証するようなシステムを構築することが必要であると考えている大学人がいるとしたら、私はその大学の未来に対して悲観的にならざるを得ない。

繰り返し書いているとおり、学校の本義は、「支配的なイデオロギーに対する対抗文化の拠点」「均質的集団内部における特異点」「外部への通路」であることに存すると私は考えている。

 

それは女子大についてもまったく変わらない。