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「今の生活レベル」などはいくらでも乱高下するものである。
そんなことで一喜一憂するのはおろかなことだ。
自分の今の収入で賄える生活をする。
それが生きる基本である。
2008年11月18日の内田樹さんのテクストを紹介する。
どおぞ。
久しぶりに平川くんが遊びに来て泊まっていったので、朝ご飯を食べながら、日本の経済の現況とゆくえについて平川くんの見通しを聴いてみた。
中小企業の窮状は予想以上のものらしい。大企業の生産調整のしわよせを押しつけられた下請けでは前年度比30%の減収というようなのは当たり前だそうである。
彼の周囲でもばたばたと倒産が続いている。
アメリカン・モデルが崩壊した以上、このあと世界は多極化と縮小均衡の局面を迎えるという予測については私も同意見である。
日本社会がこれから採用する基本戦略は「ダウンサイジング」である。
平川くんのリナックス・カフェではこのところ「企業のダウンサイジング支援」というのが主力のサービスだそうである。
巨大なオフィスを引き払って狭いオフィスに移り、ネットワークを簡略化し、商いのスケールを縮めるためのノウハウを「教えてください」とお客が列をなす時代なのである。
企業は「縮む」ということについてノウハウを持っていない。
ひさしく資本主義企業は「巨大化する」か「つぶれる」かの二者択一であり、「現状維持」とか「ダウンサイジングによる安定の回復」ということは経営者のオプションには含まれていなかったからである。
彼らが「ダウンサイジング」というときに想像するのは、「労賃の切り下げ」とか「レイオフ」とか「非正規雇用への切り替え」といった雇用調整戦略か、「別社化」や「アウトソーシング」による採算不芳部門の切り離しか、下請けや仕入れ先からの「コストカット」などの「ハード」な戦略だけである。
体力のある部分だけが生き残り、ないところは死ぬ。
勝つものがすべてを取り、負けるものはすべてを失う。
ホッブズのいう「万人が万人にとって狼である。万人が万人と闘争する」自然状態への逆戻りしか「縮む」という言葉から思いつかないのがグローバリスト的ビジネスマンである。
彼らはパンの総量が減ったときには、「他人の口からパンを奪い取らないと生きていけない」と考える。
彼らは「自分の食べるパンの量を減らしても快適に生きていける方法」という選択肢が存在することをたぶん生まれてから一度も想像したことがないのである。
例えば、「少子化問題」というのは幻想的なかたちでしか存在しない。
「人口が右肩上がりで増え続けることを想定して作られたビジネスモデル以外の生存戦略はありえない」と信じている人間の脳内だけに「少子化問題」は存在する。
もし1億3000万人の人口が維持できなければ国が滅びるなら、とうに日本は存在していないであろう(江戸時代の人口は3000万人、明治40年でも5000万人だったのだから)。
「少子化」問題は、それだけの頭数の人間が税金を払い、保険料を払わないと「現行の行政システム」が維持できないと思っている官僚と、それだけの頭数の消費者と労働者が確保できないと「現行のビジネスモデル」が維持できないと思っているビジネスマンの脳内だけに存在しており、それ以外の場所には存在しない。
「現行のシステム」を不可疑の前件にして、その上で考えるから人口減は「少子化問題」に「見える」だけである。
前件を変えれば、人口減は「問題」ではなく、「ソリューション」である。
環境への負荷や食糧自給の観点から見れば、人口減は「最適ソリューション」以外のなにものでもない。
どう考えても、地球上に65億も人間がひしめいているのは「種として」危機的な徴候だからである。減らせるところから減らした方がいいに決まっている。
「自分の食べる分のパン」の量をあらかじめ決めており、それを「神聖不可侵」の権利だと信じている人間の眼にだけ市場の縮小は危機的なものに見える。
けれども、「自分の食べる分のパン」を抑制する術を知っている人間にとっては市場の減少や人口減や経済活動の失速は「いつか見た風景」である。
かつて小さな市場、乏しい人口、ぱっとしない経済活動の下でも、私たちの父祖たちはそれなりに快適に威厳をもって社会生活を営んできた。
どうして、私たちに限ってそれができないと断定できるのか。
経済条件の切り下げによって、人間はたちまちその矜恃を失い、生きる希望まで失うということがメディアでは「当然」のように語られる。
失職した人間や労働条件を切り下げられた人間がどれほどみじめで、どれほど絶望的な状況になるかをメディアは毎日のようにこわばった筆致で報道している。
そうすることでメディアの諸君は何をなしとげようとしているのか。
彼らを支援しているつもりなのだろうか。
私にはよくわからない。
よく人々は「一度生活レベルを上げると、下げることができない」という言葉を口にする。
その言葉は実感の裏付けがあって言われているのか。
私は違うと思う。
一度も「生活レベルを下げる」という経験をしたことのない人間がそういうことを断言できるのは、「みんながそう言っている」からというだけのことである。
「一度生活レベルを上げると、下げることができない」というのは資本主義市場が消費者の無意識に刷り込み続けてきた「妄想」である。
そう信じているせいで、人々は給料が減ると、アイフルやプロミスから金を借りてまで「今の生活レベル」を維持しようとする。
金を借りることを合理化できるのは、「いずれ給料が上がる」と(無根拠だとわかっていながら)信じたがっているからである。
そうやって市場における貨幣の流動性は高まり、商品取引は活性化し、その代償に人々は自己破産や夜逃げや自殺に追い込まれてゆく(同じロジックでサブプライムローンも破綻した)。
私はこれまで何度も「生活レベルを下げた」ことがある。
仕事がなくなると収入が減る。収入の内側に生活レベルを下方修正する。同じ貧しい仲間たちと相互扶助、相互支援のネットワークを構築する。
だから、私はどんなに貧乏なときも、きわめて愉快に過ごしてきた。
「今の生活レベル」などはいくらでも乱高下するものである。
そんなことで一喜一憂するのはおろかなことだ。
自分の今の収入で賄える生活をする。
それが生きる基本である。
「ありもの」を使いのばし、「ありもの」で「要るもの」を作り置きしておいて、いざというrainy dayに備える。
私たちはこれから窮乏の時代に入る。
「右肩上がり以外の生存戦略は存在しない」と信じている人間が生き残ることのきわめて困難な時代に入る。
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