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繰り返し言うように、教育の本義は「子どもたちを共生と協働を果たしうるだけの市民的成熟に導くこと」である。
それ以外に、ない。
教育の本義は格付けや選別や排除や標準化ではない。
子どもたちを生き延びさせることであり、同時に共同体を生き延びさせることである。
2009年6月27日の内田樹さんのテクストを紹介する。
どおぞ。
依然として教育をビジネスの語法で語り、教育活動を「商品・サービス」として扱い、保護者や子どもたちを「クライアント」と呼び、「新製品」をずらりと並べて、パブリシティに金をかければ「マーケット」はいくらでも新規開発できると信じている人々が教育現場に対して強い政治力を維持していると言うことである。
この人々にご退場願わなければならない。
大阪府知事は教育についてつよい指導力を発揮しているけれど、彼が教育に求めていることは、「競争における相対優位」だけである。
彼が怒っていたのは、大阪府の生徒たちのテストの平均点が他の都道府県のそれと比較して劣位であるということに対して「だけ」であり、大阪の子どもたちの市民的成熟や、情緒の深みや、知的な批評性や創発性について彼は言及したことがない。
たぶん彼は教育の目的が「子どもを成熟させること」であるということを理解していないのだろう。
成熟の指標としてテストの点数を用いるのはむずかしい(もちろんむずかしいだけであって、不可能ではない)。
幼児に要求されるのは、「自分にはまだその有用性や意味が理解できないことについても、年長者が『いいから、黙ってやれ』と告げたことについては、判断を保留して、とりあえず受け容れてみる」というマインドを身につけることである。
これは間違いなく市民的成熟の第一歩である(第一歩にすぎないが)。
このマインドを身につけた子どもは学校のテストで高いスコアをマークする。
それからしばらくすると、次には「自分にはまだその有用性や意味が理解できないことについては、年長者が『いいから、黙ってやれ』と告げたことについても、『納得できなければやりません』と言い返す」力を身につける段階に達する。
これもまた市民的成熟には不可避の経路である。
「ものには順番がある」ということである。
初等教育においては「言われたことをやる」能力が「言われても納得できないことは拒否する」能力よりも優先的に開発される。
当然のことである。
六歳の子どもに「拒否権」を認めたら、たぶん相当数の子どもは学びを選択しないからである。
漢字が書けず、四則計算ができず、アルファベットが読めない、太平洋戦争の戦勝国を知らない、といったタイプの子どもたちが成人して、社会の構成員になった場合(すでになっているが)、彼らは「社会の弱い鐶」になる。
その数が成員の数パーセントくらいまでにとどまれば、支えることはできる。
だが、それを越えたら、彼らを支えるための社会的コストで共同体は疲弊し、いずれ環境への適応力を失ってしまうだろう。
それを防ぐためには、子どもに確実に成熟への階梯を登ってもらわなければならない。
成熟の指標をさまざまな仕方でセットし、さまざまな機会に吟味しなければならない。
学校でのテストの点数は「その意味や有用性がよく理解できないことを黙って学習する能力」の指標である。
これはまぎれもなく、市民的成熟への一階梯である。
けれども、それ以上のものではない。そこにとどまっていてよい階梯ではない。
むしろあまりに長期にわたって、「学校のテストの点数」を安定的に高く保っている子どもがいたら、その子どもはどこかで成熟の行程が停止している可能性を吟味した方がいい。
受容と反発はその順番で繰り返される。
何度も何度も繰り返される。
それは昆虫が脱皮するのと同じである。
だから、就学中にはテストの点数が「上がったり、下がったり」することこそが子どもが健全に成熟していることの指標なのである。
「上がったまま」も「下がったまま」も成熟停止を告げるアラームである。
だから、テストの点数というのは、個人における経年変化を見る場合にのみ有用なのであって、それ以外には成熟の指標としては役に立たない。
私は長年の教育現場での経験からそう断言できる。
繰り返し言うように、教育の本義は「子どもたちを共生と協働を果たしうるだけの市民的成熟に導くこと」である。
それ以外に、ない。
教育の本義は格付けや選別や排除や標準化ではない。
子どもたちを生き延びさせることであり、同時に共同体を生き延びさせることである。
教育関係者があまり口にしないことで私がはっきり言っていることは、「子どもが危険だ」というのは、「子ども自身が危険にさらされている」ということと、「社会が子どもによって危険にさらされる」ということを同時に含意している、ということである。
子どもが子どものままにとどまっていることを許した共同体は人類史上一つも存在しない。
存在したのかもしれないが、消滅して、今は存在しない。
成熟のメカニズム、共生と協働のための能力を適切に育成するプログラムを持たない共同体は、長くは存在できない。
そして、私たちの社会の教育システムはその本義を忘れて久しい。
私たちの国の初等中等教育は久しく「同学齢集団内での相対優位」を偏差値で表示し、それを高くすることに教育資源の過半を投じてきた。
その結果、日本の子どもの学力はひたすら下がり続けている。学習時間は先進国最低であり、学力も遠からず最低になるだろう。
「閉ざされた集団内部でのラットレース」に子どもを追いやることには教育的にはほとんど何の意味もない(まったくないわけではない。初等中等教育の一段階では効果があることもある。高等教育では全くないが)。
しかし、私たちの国では教育を受けることの目的を「ラットレースでの相対優位」に立つことだと本気で信じている人間たちが教育行政に与り、依然として、つよい影響力を行使している。
文科省は初等教育からの英語教育の必要性を論じたサイトで、「国際的なメガコンペティションでの相対優位」を学習の第一目的に掲げていた。
外国語を学ぶ第一の理由は、どの言語であれ、その言語を語り継ぎ、あるいは書き継いできた文化圏のうちに蓄積された「知のアーカイブ」にアクセスできる能力を身につけることである。
それはボルヘス的図書館への「魔法の鍵」である。
それが知的情的な成熟と開放にとってきわめて有用であるからこそ、私たちは外国語の習得を勧奨してきたのである。
「英語ができないと金儲けに後れを取る」というような動機で英語学習を勧奨する文言を一国の教育行政を預かる省庁が満天下に公言することについて、「それはどうか」とたしなめる声は庁内からは出なかったのか。
教育はその原点に還るべきだと私は思う。
子どもを成熟させるために何が必要か、それを問うのである。
それだけを問うのである。
そう問うたときに、「ほんとうの大人」であれば、自身の未熟を深く恥じるだろう。
大人がつねに自分の未熟を恥じる文化からしか、子どもを成熟に導くメカニズムは生成しない。
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