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「大人」とは人間の社会的活動の意味を考量するときに「それをするといくらになるの?」というような「子どもじみた」問いを発しない人間のことである。
2009年9月18日の内田樹さんのテクストを紹介する。
どおぞ。
学校教育についての評言のほとんどは、それがどういう「利益」を「受益者」である子どもたち、および「金主」である家父長たちにもたらしているかを基準になされている。
けれども、学校教育の本義は「利益」によって表示されることはできない。
その人類学的使命は「子どもを大人にする」ということに尽くされている。
「大人」とは人間の社会的活動の意味を考量するときに「それをするといくらになるの?」というような「子どもじみた」問いを発しない人間のことである。
なぜ、そのことをしなければならないのか、その理由を「それがもたらす利益」によって実定的に言うことはできないが「どうしても、そのことをしておかないと、 『よくないこと』が起こりそうな気がする」という直感に基づいて、誰にも命じられず、誰にも責任の分担を求めず、固有名において「そのこと」を敢行できる人間、それが「大人」である。
カミュが言ったように「いかなる上位審級も規矩として機能していない局面で、なお適切に行動することができる能力」が人間の真の人間性を構築しているのである。
「大人」というようなむずかしいものに定義の決定版があるはずはないのだが、とりあえず、これが今日の「大人の定義」である。
学校教育を「子どもを成熟させる制度」という観点から見ると、今日の学校教育をめぐる「ねじれた」構造が理解できる。
学校教育の意義を「それがもたらす利益」によってしか考量できないものは、語の定義に従えば「子ども」である。
そういう人間は年齢がいくつであろうと、総理大臣であろうと経団連会長であろうと教育学者であろうと、「子ども」である。
そして、きびしい言い方だが、学校教育が「子どもを大人にする」機能を担っている以上、「子ども」には学校がどうあるべきかを言うことができない。
それでもぜひ言いたいことがあるというのなら、言うのは当人の自由だが、耳を傾けるべき知見がそこに含まれている可能性はきわめて低い(原理的にはゼロである)。
だが、年ばかり食った「子ども」たちが「学校教育はこうあるべきだ」ということをうるさく議論してきたせいで、学校教育は「こう」なった。
そろそろ学校教育の機能をその本義に戻すべき時だと私は思う。
学校で子どもが経験すべきなのは、「なんだか訳のわからないもの」に取り囲まれ、「ルールがわからないゲーム」にプレイヤーとして参加しつつ、その中で適切にふるまうという試練である。
どのような不条理な状況の中にも、「それでも比較的条理の通った部分」はある。それを見つけ出すのが第一の仕事である。
私たちがどこでもそうしているように、「いったいここでは人々はどういうルールでゲームをしているのだろう」と当惑したときに、教えてくれそうな人を探して、その人に訊く。
「この人に訊けばわかりそうな人」を目を凝らして探し出す。
「私がどこに行けばいいのか教えてくれる」人のことを「メンター」という。
私自身は自分がどこに行けばいいのか知らない。
けれども、その人は私の行き先について知っている。
そういう人を見出さなければならない。
だが、どうやって?
自分の行き先があらかじめわかっていれば、「ここに行く道を知っている人、いますか?」と訊ねることができる。
でも、子どもは自分の行き先を知らない。
にもかかわらず自分をあやまたず行き先に導いてくれる人を捜し当てなければならない。
それが「正しい行き先」であったかどうかは、着いてみなければわからない。
でも、感度のよい子どもはそこに行く道を、とりあえず途中まででも、先に進めてくれそうな人を探り当てることができる。
現に、すぐれた探偵小説は必ず「そういう話」である。
できの悪い探偵小説だと、「目的地」まで連れて行ってくれる「謎の人物」が開巻早々いかにも「謎の人」のような顔をして登場してしまう。「あ、こいつが事件の鍵を握っているのだな」と読者にすぐわかる。
できのよい探偵小説の場合、大団円へ続く最後のドアを開けるのはたいてい「意外な人物」である。
探偵のかたわらにずっといた「凡庸な人物」や背景に紛れていた「二流の登場人物」(執事とかね)が事件解決の鍵を握っている。
さらにすぐれた探偵小説においては、探偵自身が(それと知らずに)事件のもっとも重要な鍵を握っている。探偵は自分自身が事件の鍵そのものであったことに、事件解決の最後の瞬間にまで気づかない。
実は「私自身」が私を導いていたのだ・・・というのがよくできた探偵小説に繰り返し見られる説話構造である。
どうして、このような話型が好んで繰り返されるのかというと、それが「メンター」に出会う構造と相同的だからである。
私たちの世界では、あらゆる人が潜在的には「メンター」として機能する。
すべての人が何らかの仕方で、「私」がどこにいて、何をしているのかについて、その人しか与えてくれることの出来ない唯一無二の情報を持っている。
その人を経由したせいで、目的地に早く着く場合もあるし、長い迂回を強いられることもある。
けれども、いずれにせよ、彼らに出会う必然性が私にはあったのである。
だから、すぐれた作家は探偵小説に惹きつけられる。
それが「成熟の物語」だからである。
筒井康隆は以前『罪と罰』は推理小説である(でも、犯人が最初からわかっている点が問題)と書いたことがあったが、これは洞見というべきであろう。
『罪と罰』をペトローヴィチ予審判事が探偵で、彼が狡猾にして純真という(厄介な)犯人、ラスコーリニコフを「落とす」までの長編探偵小説として読むと、きわめてすぐれた探偵小説の構造になっていることがおわかりいただけるはずである。
学校が成熟の場であるということは、平たく言えば、学校で、子どもたちは「すぐれた探偵」になるための訓練を受けるということである。
手がかりは現場に残された意味不明の断片と、つじつまの合わない証言だけ。
それを手がかりに、一人また一人と「行き先を教えてくれそうな人」を探り当て、彼らからそのつど有用な情報と支援を引き出し、最後に関係者全員を前にして、「ここでほんとうは何が起きたのか」についてつじつまのあった物語を一篇語る。
探偵小説の本質的なアポリアは、「そこでほんとうに起きたこと」は時間が不可逆である以上、どのような名探偵も実は言うことができないということである。
それはいずれにせよ「つじつまのあった一篇の物語」に過ぎない。
同じ事態を説明できる、「それとは違う物語」が実はそれ以外にもいくつも(潜在的には)存在するのである。
だから、すぐれた探偵小説の中には、探偵が事件を鮮やかに解決したあとに、実は「本当に起きたことは、そうではなかったのだ」という一言をぽろりと漏らす・・・というツイストの効いたエンディングが用意してあることがしばしばある。
「私の目的地」というのは「お話しである。
それはそこに着いたときに「こここそ『私の目的地』だったのだ」と誓言をなすものにとってだけ存在する。
その誓言によって、それまでのすべての旅程が輝かしいものに変わる。すべての出会いの意味、すべての試練の必然性が理解される。
けれども、意味や必然性はそれらの出来事に内在していたのではない。「こここそ『私の目的地』だったのだ」と誓言した人間が事後的に構築したものである。
「大人」というのは自分が生きたことの意味を担保するものは自分の外部や上位には存在しないということを知っている人間のことである。
それは先ほど書いた。
自分が生きたことの意味を自分で構築するというのは、いわば、自分の全人生の価値を「私造貨幣」で表示するようなものである。
あらゆる貨幣がそうであるように貨幣の価値を決定するのは、それが現に貨幣として流通しているという原事実である。
だから、「私造貨幣」に貨幣としての価値をあたえるのは、それが現に有用であるという事実だけである。
「これを学ぶことが何の役に立つんですか?」という問いを教育の場で許してはならないということはこれまで何度も書いてきた。
学んだことが「役に立つ」かどうかを決めるのは学ぶもの自身である。
価値は知識や情報や技術に内在するのではない。
それを用いる人間が構築するのである。
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