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よく「最近・・・な事件が増えていますが」というようなことをワイドショーのコメンテイターが口走る。「最近少年犯罪が増えていますが」とか「家庭内における殺人事件が増えていますが」と簡単に口にするが、それはその人の主観的印象に過ぎず、統計的には過半が無根拠である。というか積極的に「嘘」である。
例えば、前にもこのブログで書いたが、少年犯罪は戦後一貫して減り続けており、日本は「少年犯罪が異常に少ない国」ということでヨーロッパから視察団が来るような国なのである。
2010年4月24日の内田樹さんのテクストを紹介する。
どおぞ。
東京都青少年健全育成条例について基礎ゼミの発表がある。
「表現に対する法的規制」というものについて私は原理的に反対である。
ふつうは「表現の自由」という大義名分が立てられるけれど、それ以前に、私はここで言われる「有害な表現」という概念そのものがうまく理解できないからである。
まず原理的なことを確認しておきたい。
それは表現そのものに「有害性」というものはないということである。
それ自体有害であるような表現というものはこの世に存在しない。
マリアナ海溝の奥底の岩や、ゴビ砂漠の砂丘に、あるいは何光年か地球から隔たった星の洞窟の壁にどのようなエロティックな図画が描かれていようと、どれほど残酷な描写が刻まれていようと、それはいかなる有害性も発揮することができない。
「有害」なのはモノではなく、「有害な行為」をなす人間だからである。
全米ライフル協会は「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」と主張しているが、そのワーディングをお借りすれば「有害な表現が有害なのではない、有害な人間が有害なのだ」ということである。
人間だけが有害であり得る。
マンガやアニメや小説が自存的に「有害」であるということは(残念ながら)不可能なのである。
間違いなく、有害性というのは人間を媒介とすることによってしか物質化しない。
だとすれば「有害表現」は「人間が有害な行為を遂行するように仕向ける表現」以外での定義を受け付けない。
では、どのような表現が「人間を有害な行為の遂行に導く」のか。
つまりどのような表現が「ほんとうに有害」なのか。
これについては定説がない。
今回の条例が採用しているのは、「有害な表現は人間を有害な行為に導く」という命題である。
けれども、この命題はトートロジーであり、論理的には何も言っていないのと同じである。
「有害な表現」という主語はそれが「有害な行為」の主因であるということが論証されない限り、「有害」という形容詞を引き受けることができない。
たしかに「有害な行為」というものは事実として存在する。
性犯罪や殺人はとりあえず被害者にとっては間違いなく「有害」である。
けれども、「まちがいなく有害な表現」というものはこの世には存在しない。
それは、その図書なり図画に触れたことが「有害な行為」の一因であったということが証明されたあとに、遡及的にはじめてその有害性を認知される「仮説」としてしか存在しない。
そして、この仮説はかつて証明されたことがない。
今回の論件をめぐる議論でもおそらく多くの人がすでに指摘していると思うので、屋上屋を重ねることになるが、だいじなことなので、もう一度繰り返す。
統計が教える限り、「有害」表現規制と「有害」行為の発生のあいだには相関関係がない。
よく「最近・・・な事件が増えていますが」というようなことをワイドショーのコメンテイターが口走る。「最近少年犯罪が増えていますが」とか「家庭内における殺人事件が増えていますが」と簡単に口にするが、それはその人の主観的印象に過ぎず、統計的には過半が無根拠である。というか積極的に「嘘」である。
例えば、前にもこのブログで書いたが、少年犯罪は戦後一貫して減り続けており、日本は「少年犯罪が異常に少ない国」ということでヨーロッパから視察団が来るような国なのである。
「家庭内殺人」も少ない。
「殺人事件全体に占める家庭内殺人の比率」は相対的に高いが、それは殺人事件そのものが減少しているからである。2007年には統計史上最低値を記録した。
わが国の、殺人事件発生率は、人口10万人あたりの1件で、先進国中ではアイルランドと並んで最低である。
ロシアは日本の22倍、イギリスは15倍、アメリカは日本の5倍、ドイツ、フランス、イタリアも日本の3倍である。
2009年の殺人発生件数(1097件)は戦後最低を記録した。
今回の条例は青少年の犯罪を憂慮して起案されたもののようであるが、少年犯罪だけを見ても、強姦件数が最多であったのは1958年の4649件であり、以後減り続け、2006年は116件にとどまっている。
半世紀で「最悪の時代」の2.5%にまで減少している。
少年犯罪件数が最高であった1950年代末を私はリアルタイムで経験しているが、私の記憶する限り、1958年に街には「有害図書」を子どもたちが自由にアクセスできるような機会はなかった。
もちろん、コンビニもなかったし、書店の子どもの手が届く本棚にはそんな本はなかった。
エロゲーも、ポルノビデオもなかった。
性に関する情報から子どもたちは遮断されていた。
そのような状況のときに、少年の性犯罪発生件数が最多を記録した。
この事実から私たちが推論できるのは、性犯罪の多発と「有害」図書のあいだに有意な相関は見られない、ということである。
私が言いたいことは3点である。
第一に、「有害表現」というのは「有害行為」が生じたあとに、遡及的に措定されるものであり、自存的に存在するものではない。
性犯罪や暴力行為は、遺伝形質によっても、家庭環境によっても、教育によっても、信教によっても、イデオロギーによっても、もちろんそうしたければ「有害表現」によっても説明可能である。
けれども、それはあくまで「仮説」的な前件にすぎない。
同じ環境に育ち、同じ教育を受け、同じ本を読み、同じ映画を観ても、ある人間は殺人者や強姦者になり、ある人間はそうならない。
ふちぎりぎりまで水が満たされたコップに最後の一滴が加わって水があふれたときに、その一滴を「原因」だと言うことは適当ではない。
そう言いたい人間は言えばよいが、それは起きた出来事についてほとんど有用な知見を含まない。
第二に、前項にもかかわらず、性交や暴力についての表現規制によって、そのような行為が効果的に抑制されたという事実は私の知る限り存在しない。
それは結局のところ「有害表現」という「もの」は存在しないということである。
現代世界で、性描写についての禁圧がもっとも厳しいのはイスラム圏であるけれど、女性の人権が軽視され、性暴力がもっとも激烈なのは当のイスラム社会である。
現代世界で、もっとも暴力的なのはアメリカであるが、そのアメリカは1934年から68年まで、ヘイズコードによって映画での性描写と暴力がきびしく規制されていた。その表現規制はアメリカがその間太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争で数百万人のアジア人を殺すときには抑制的には機能しなかった。
第三に、そもそも「有害行為」が増加しているという現状認識そのものが、統計的事実を見る限り正確とは思われない。
「日本はこれまで以上にきびしい表現規制が必要であるほど有害な行為が増加している」ということを統計的に証明できない限り、そもそもこのような条例についての議論は始まらないはずである。
誰が、どういう根拠によって法規制の喫緊であることを証明したのか、それを東京都の関係者は開示しているのであろうか。
私が言いたいことは、以上三点である。
「有害」な行為は件数がいくら減少したとはいえ、たしかに現代日本社会に厳として存在する。
それを規制することは私たちの願いである。
けれども、ほんとうに有害な行為を抑制したいと望むのであれば、「どのような歴史的・社会的原因によって有害行為の発生件数は増減するのか?」についてもう少し真剣に考察するところから始めてもよろしいのではないか。
都庁には、それなりの人的資源があるはずである。
それをどうしてもう少し世の中の役に立つことに使わないのであろうか。
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