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引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。
2013年4月7日の内田樹さんのテクスト「学校教育の終わり」を紹介する。
どおぞ。
大津市でのいじめ自殺、大阪市立桜宮高校でバスケットボール部のキャプテンの体罰自殺など、一連の事件は日本の学校教育システムそのものがいま制度疲労の限界に達していることを示している。
機械が壊れるときは、金属部品もプラスチックもICもすべてが同時に劣化する。それに似ている。学校教育にかかわるすべてが一斉に機能不全に陥っている。
これを特定のパーツを取り替えれば済むと考えている人は「どこが悪いのか?」という「患部」を特定する問いを立てようとする。だが、それは無駄なことだ。日本の学校制度はもう局所的な手直しで片付くレベルにはない。
「日本の学校制度のどこが悪いのでしょうか」と訊かれるならば、「全部悪い」と答えるほかない。
けれども、学校教育は「全部悪い」からといって、「全部取り替える」ことができない。自動車なら、新車が納車されるまで、バスで通う、電車で通うという代替手段があるが、学校にはない。新しい学校システムができるまで子どもたちを収容する代替機関が存在しない。
学校を全部変えるということは「無学校状態」に子どもたちを放置するリスクを負うことであり、私たちはそんなソリューションを採択することができない。
つまり、学校教育システムを全部変えなければいけないのだが、部品は今あるものをそのまま「使い回し」てゆかなければならない。
いわば、自動車を走らせながら修理するようなことを私たちは求められているのである。
これが学校教育についての私の基本的な立場である。「走りながら修理する」ために、何をすればいいのか? 何ができるのか?
日本の近代学校教育システムは「国民形成」という国家的プロジェクトの要請に応えるかたちで制度設計された。つまり、学校の社会的責務は「国家須要の人材を育成すること」、「国民国家を担うことのできる成熟した市民を作り出すこと」ことに存したのである。サラリーマンになるにしても兵士になるにしても学者や政治家であっても、教育の目的はあくまで「国家須要の人士」の育成である。成否は措いて、この目的そのものは揺るぎないものだった。
1945年の敗戦でも、学校教育の目的が国民国家の未来の担い手を育てることであるという目的そのものに疑いは挟まれなかった。戦後生まれの私たちの世代は「民主的で平和な日本の担い手」たるべく教育された。
明治維新以来、学校教育は「国民国家を維持存続させるため」のものであり、教育の受益者がいるとすれば(そういう言葉は使われていなかったが)、端的に共同体それ自身だったのである。
この合意が崩れたのは一九七〇年代以降のことである。
歴史的理由については贅言を要すまい。歴史上例外的な平和と繁栄である。私たちは「平和と繁栄のコスト」をいろいろなかたちで支払うことになったが、学校教育の目的変更もそのひとつである。
このとき、学校教育の目的は「国家須要の人材を育成すること」から、「自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力・財貨・文化資本の有利な分配に与ること」に切り替えられた。
教育の受益者が「共同体」から「個人」に移ったのである。
もちろん、明治に近代学制が整備されたときから、人々は自己利益のために教育を受けた。ほとんどの場合はそれが「本音」だった。だが、「おのれひとりの立身出世のために教育を受ける」という生々しい本音を口に出すことは自制された。あくまで学校教育の目的は「世のため人のため」という公共的なレベルに維持されていたのである。
七〇年代以降、それが変わった。人々はついに平然と学校教育を「自己の付加価値を高め、自己利益を増大するための機会」だと公言するようになった。教育の受益者が「共同体」から「個人」にはっきりと切り替わったのである。
だが、その根本的な変化が学校教育をどのように変容させることになるのか、どのように「破壊する」ことになるのか、そのときの日本人は想像していなかった。
その後、教育はつねに「教育を通じてどうやって個人の利益を増大させるか?」という問いをめぐって論じられた。教育改革も教育批判もその点では同じだった。その前提そのものが設定の間違いではないかという反問をなす人はいなかった。
もちろん文科省の発令する文書には依然として「愛国心」や「滅私奉公」的な言辞がちりばめられていた。だが、そこで言われる「愛国心」は実際には単に「上位者の命令に従うこと」しか求めていなかった。「滅私奉公」してまで何をするかというと、「グローバルな経済競争に勝ち残ること」つまり「金儲け」なのである。
このとき、国民国家はほぼまるごと「営利企業モデル」に縮減されたのである。上司の言うことを黙って聞いて、血尿が出るまで働いて、売り上げノルマを達成すること、それが学校教育の事実上の目標に掲げられる時代になったのである。
「公教育」という理念を考え出したのは啓蒙主義の時代のフランス人だが、行政制度として実現してみせたのはアメリカ人の方が早かった。だが、そのときも公教育の導入には強い抵抗があった。というのは、アメリカ社会は伝統的に「自己教育・自己陶冶」を重んじる国だったからである。
学校教育に税金を投入すると聞かされたアメリカの裕福な市民たちはこう言って抗議した。
「もし教育を受けたものが、そこで得た知識や技術のおかげで出世し、高い地位を求めるのであれば、それは自己負担でやるべきことではないのか。なぜ、私が刻苦勉励して納めた税金を他人の子どもの教育に投じて、自分自身の子どもたちの競争相手を作り出さなければならないのか?」
この反対論は強固なものだった。
公教育論者たちはこれを説得するために苦肉の理屈に訴えた。
あなたがたが税金を投じて学校教育を整備してくれれば、文字が読め、四則計算ができ、基礎的な社会的訓練ができた子どもたちを作り出すことができる。それは長期的にはビジネスマンのみなさんにとっても「よいこと」であるはずだ。彼らは優秀な労働力となり、活発な消費活動を行う消費者になるだろう、と。
市民たちはこの言い分を受け入れた。とりあえずアメリカの高額納税者たちは「労働者の質向上と市場の成熟」という長期的な利益を「今期の税額の多寡」という短期的な利益に優先させるくらいの計算能力を備えていたのである。
日本の教育改革論はどれも公教育への税金投入に反対したこのときのアメリカの納税者のロジックを下敷きにしている。すなわち、「教育の受益者は本人だ。そうであるならば、教育のコストは自己負担すべきだ」というものである。
貴重なる公金を支出するなら、学校は目に見えるかたちで、今すぐにその「見返り」を示さねばならぬ。それはとりあえず能力が高いが、安い賃金と長時間労働を受け入、上司の命令に従順な労働者を量産して、納税者の金儲けを支援させよというものである。
ここには「次世代の共同体を担う成熟した公民を育成する」という長期的な国益への配慮はもう見られない。企業の収益が今すぐに増大するような教育的アウトカムばかりが求められている。そして、「短期の損得を先にして、共同体が瓦解するリスクを冒すな」とそれを抑制する対抗的なロジックを語る人はもはやメディアにはほとんど登場しないのである。
近代の学校教育が「国民国家内部的」な制度である以上、学校教育の衰退が国民国家の衰退と歩調を揃えるのは当然のことである。
経済のグローバル化に伴って、いま世界中で国民国家はその解体過程にある。領土があり、官僚組織と常備軍を整え、その土地と文化につよい帰属意識をもつ「国民」を成員とするこの統治システムそのものが終わりつつある。
グローバル資本主義は人、資本、商品、情報が超高速でクロスボーダーに移動することを要求する。この要求は不可逆的に亢進し続ける。クロスボーダーな運動にとって最大の障害は国境、ローカルな国語、ローカルな法律、ローカルな商習慣である。これらすべてをすみやかに排除することをグローバル資本主義は求める。
経済のグローバル化を強力に牽引しているのはアメリカという国家だが、アメリカの国家戦略を実質的にコントロールしているのはすでに政治家ではなく、グローバル企業である。
国民国家はグローバル資本主義にとって、クロスボーダーな経済活動を妨害するローカルな障壁だが、利用価値がある限りは利用される。
国家資源は、政治家も官僚組織も軍隊もメディアも、もちろん学校教育も総動員される。
だから、グローバル化の進行過程で「国民国家の次世代の成員を育成する」といった迂遠な目的を掲げる公教育機関が存続できるはずがない。
グローバル資本主義は国民国家とも、学校教育とも「食い合わせが悪い」のである。
だから、「グローバル化に最適化した学校教育」はもう学校教育の体をなさない。教育にかかわるすべてのプレイヤーが「自己利益の最大化」のために他のプレイヤーを利用したり、出し抜いたり、騙したりすることを当然とするようなれば、そこで行われるのはもう教育ではないし、その場所は「学校」と呼ぶこともできない。
現に、学校のグローバリスト的再編を求めている当のグローバリスト自身、日本の学校がもう学校としては機能していないことをよく理解している。だから、彼らは平気で自分の子どもには「スイスの寄宿学校で国際性を身につけろ」とか「ハーバード大学で学位をとってこい」というようなことを命じる。日本の学校が「もうダメ」なら、外国の学校で教育を受ければいい。そう言い切れるのは、「学校教育の受益者は本人である」という信憑が彼らのうちに深く身体化しているからである。優秀な人間はどんどん海外に雄飛すればいい。日本なんかどうせ「泥舟」なんだから、沈むに任せればいいというのはひとつの見識である。
だが、そういう人は学校教育については発言して欲しくない。
繰り返し言うが、学校教育は国民国家内部的な「再生産装置」であり、ほんらい自己利益の増大のために利用するものではないからである。
残念ながら今の日本の支配層の過半はすでにグローバリストであり、彼らは「次世代の日本を担う成熟した市民を育てる」という目的をもう持っていない。
ご本人たち自身が子弟を外国の学校に通わせており、国内での雇用創出にも地域経済の振興にも興味がなく、所得税も法人税もできれば納めずに済ませたく、彼らがその収益を最優先に配慮する企業の株主も社員もすでに過半が外国人なら、それも当然である。
だが、不思議なことだが、「正直なところ、日本なんかどうなってもいい」と思っている人間しか社会的上昇が遂げられないように今の社会の仕組みそのものが再編されつつあるのである。
だから、まことに絶望的なことを申し上げなければならないのだが、今の日本では学校教育を再生させるために打つ手はないのである。
教育改革をうるさく言い立てる政治家やメディア知識人はいまだに「勉強すれば報償を与え、しなければ処罰する」という「人参と鞭」戦術で子どもたちの学びを動機づけられると信じているようだが、それがもう破綻していることにいい加減に気づいたらどうかと思う。
利益誘導は、高い学歴や社会的地位や高い年収といった「人参」に魅力を感じない子どもたち、「欲望を持たない子どもたち」には何の効果も持たない。「そんなもの、欲しくないね。僕は家に引きこもって、ゲームをしている方がいいよ」と言う子どもに利益誘導はまったく無効である。
同じように、あまりにスマートであるために、学校に通って付加価値を高めるというような遠回りを「かったるい」と思う子どもたちにも利益誘導は無効である。彼らは学校に通う時間があったら、起業したり、ネットで株を売買したりして、若くして巨富を積む生き方を選ぶだろう。学校に通う目的が最終的に「金をたくさん手に入れるため」であるなら、自分の才覚で今すぐ金が手にできる子どもがどうして学校に通うだろう。
「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする戦略はこうして破綻する。「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。
引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。
だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。
欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。
だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。
彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。
結論を述べる。
日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。
唯一の救いは、同じ傾向は世界中で見られるということである。
学校教育が国民国家内部的な装置である以上、グローバル化の進行にともなって、遠からず欧米でもアジアでも、教育崩壊が始まる(もう始まっている)。だから、日本の学校教育の相対的な劣位がそれほど目立たなくはなるだろう。
もう一つだけ救いがある。それは崩壊しているのが「公教育」だということである。国民国家が解体する過程で、公教育は解体する。だが、「私塾」はそうではない。
もともと私塾は公教育以前から、つまり国民国家以前から存在した。懐徳堂や適塾や松下村塾が近代日本で最も成功した教育機関であることに異議を唱える人はいないだろうが、これらはいずれも篤志家が「身銭を切って」創建した教育機関である。
このような私塾はそれぞれ固有の教育目的を掲げていた。「国家須要の人材」というような生硬な言葉ではなく、もっと漠然と「世のため人のために生きる」ことのできる公共性の高い人士を育てようとしていた。
それがまた蘇るだろうと私は思っている。隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。私はそう考えている。そして、おそらく、私と思いを同じくしている人の数は想像されているよりずっと多い。
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