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けれども、勘違いしてもらっては困るが、「学校教育に受益者負担の原則を適用すべきだ」というような信憑が支配的な意見であったことは近代にはないのである。
2016年7月1日の内田樹さんのテクスト「変わらないことの意味」を採録する。
どおぞ。
神戸女学院時代の同僚たちと毎年スキー旅行に来ている。91年の春に着任一年目のシーズンに先輩たちに誘われて来てからだから今年で25回目になる。私は高校一年生のときから半世紀にわたってスキーをしてきた。本邦における「スキー文化」の消長を砂かぶりで眺めてきた。そして、ほんとうに風景が変わった、と思う。
一番変わったのは、若者がゲレンデにいないということである。レストランに入って、辺りを見回してもほとんど中高年者と外国人しか目に入らない。高齢化・インバウンド依存がこのまま推移すれば、いずれ高齢者たちが退場したときに大正時代にヨーロッパから扶植されて発展してきた「日本のスキー文化」それ自体が消滅することになる。百年以上の歴史を持つ、近代日本を彩ってきた一つの生活文化が消える日がかなり間近に迫っている。
スキーはアルピニズムやボートレースと同じように旧制高校・旧制大学を経由して日本社会に根付いたスポーツであり、それゆえに独特の「理想主義」と「教養主義」をこびりつかせていた。スキーとアルピニズムは60年代までは専門用語がほとんどドイツ語だった(ゲレンデも、ヒュッテも、ストックも、ザイルも、「シーハイル」もドイツ語である)。そのエリート主義的な「臭み」が気になったという人もいたかも知れない。けれども、外来の文物を日本に土着させて、「ハイブリッド」を創り出すというのは日本的知性の発動の仕方としてはごく正統的であり、かつ多産的なものであった。でも、約100年の歴史を持つこのスポーツ文化が今日本社会から消えようとしている。
理由は分かりきっている。若者たちが貧困化しているからである。経済的に貧しいだけでなく、精神的にも、文化的にも貧しくなっているからである。広く言えば、若者たちの生きる場である学校という場所そのものが貧しくなっているからである。
先日、大学の杖道会の合宿があった(私は退職後もクラブの師範を続けている)。部員は10名ほどいるはずだが、合宿に参加したのは2名だけだった。OGたちと私が主宰している合気道道場の門人が何人か来てくれたので合宿の体裁は整ったが、学生と私だけでの合宿だったらずいぶん寂しいものになっただろう。なぜ来られないのか訊いたら、「バイトのシフトが調整できなかったみたいです」ということだった。毎週曜日と時間の決まった稽古時間になら来られるけれど、合宿のようなイレギュラーな時間割には対応できない。
私が学生の頃も、もちろんアルバイトはしていた。けれども、事前に予告しておけば、自己都合で休むことも、時間を入れ替えることもできた。誰でもそうしていたし、それを咎めるような雇い主もいなかった。だが、今の学生たちの雇用環境はきわめてタイトである。売り上げノルマを達せなかったり、破損した商品の弁済を求められて、バイト先に借金を作ったというニュースを見かける。そのような「ブラックバイト」が珍しくないほどに雇用環境全体が劣化しているのである。
加えて、学費の高騰と奨学金の給付から貸与への切り替えによって、学生たちの貧困化に拍車がかかっている。貸与奨学金の負債が卒業時点で500万を超えるというケースはもう本学でも珍しくない。大学を卒業しても今では4割が非正規雇用である。学生どころか親たち自身がいまだに非正規雇用という家庭もある。奨学金を親が生活費に流用してしまって授業料が払えないというケースもある。
学生たちが貧しくなっているのは、国が教育への財政支援を削っているからである。授業料を無償化するか、給付奨学金を充実させれば、学生たちは貧困から脱出できる。だが、そのような若者支援のプランを真剣に語る政治家も財界人もジャーナリストもいない。
それは国が教育への支援を削減していることに国民の多くが反対していないからである。現に自分自身や自分の家族がそのせいで貧困化しているにもかかわらず、教育への公的支出はしなくていいと多くの国民が思っている。奇妙な話であるが、それは日本人たちがいつのまにか学校教育が提供するものを「商品」だと信じるようになったからである。
学校は「教育商品」を売る「売り手」であり、学生・保護者たちはその商品の「買い手」である、そういう商取引の図式で人々は今学校教育を捉えている。
学校教育は「自己利益を増大させるもの」であるがゆえに、学校に通うものは「受益者」であり、それゆえ「受益者負担」の原則によって、本人(あるいは保護者)が学費を負担すべきだと考えている人がいる。いるどころではない。たぶん日本人のほとんどがそう考えている。だから、税金を使って自分の学費を減免してくれというような「甘えたこと」を言うなと言い張る人がいる。そんなことは自己責任だと言い放つ人がいる。けれども、勘違いしてもらっては困るが、「学校教育に受益者負担の原則を適用すべきだ」というような信憑が支配的な意見であったことは近代にはないのである。
いや、それに似たことを言った人たちはたしかにいた。公教育導入時点のアメリカがそうだった。19世紀のアメリカでは、学校教育に税金を投入するという構想に多くの納税者たちが反発した。学校教育がもたらす知識・技術・教養・人脈などは教育を受けた個人に社会的上昇の機会を提供する。教育が自己利益を増大させるものであるならその費用は受益者負担であるべきだ、というのである。納税者たちはこう言った。「私たちは自己努力の結果として、子どもたちに学校教育を受けさせるだけの財産を築いた。私たちの子どもは親の努力の成果の恩恵に浴する権利がある。だが、なぜ私たちほど努力もせず、才能もなかった人たちの子どもの教育に私たちの納める税金を投じる必要があるのか。もし、税金で彼らの社会的上昇を支援すれば、それは努力しない者が得をすることになり、社会的倫理が崩れる。それに、税金で教育を受けて社会的上昇の機会を得た貧乏人の子どもたちは社会的なポスト争いで私たちの子どもたちの競争相手になる可能性がある。何が悲しくて自分たちの子どもの競争相手を増やすために私たちが身銭を切らなくてはならないのか。こんな理不尽な話はない。貧しい人間が学校教育を受けたいと言うなら、まず額に汗して働いて、自力で学資を稼いで、それを自己投資するのが筋だ」と。これは論破することの難しいロジックであった。
しかし、最終的にこの「リバタリアン」的な主張は退けられ、幸いにもアメリカに公教育システムは根づいた。そのときに公教育論者が必死で語ったのは「学校教育に税金を投入して、貧者にも教育機会を提供すれば、それによって利益を得るのは『あなたがた』だ」ということであった。学校を出たおかげで、四則計算ができ、文字が読め、社会的常識を身に付けた者たちは「あなたがた」の工場ではよい労働者になり、「あなたがた」の工場で作る製品の旺盛な消費者となるであろう。学校教育に税金を投入すれば、長期的には「あなたがた」が儲かるのである、と。そう説いたのである。この説得に公教育への税金投入に反対していた富裕層たちも最終的には折れた。けれども、それは公教育の理念そのものに同意したからではなく、そうした方が「自己利益が増大する」という算盤を弾いたからであることに変わりはない。
このときに語られた「リバタリアン」的な教育観は今もアメリカ社会には伏流している。けれども、それが支配的な意見になったことはない。もし、19世紀の段階で「リバタリアン」的教育観が勝利して、公教育への税金投入が抑制され、高等教育を受けられる者が富裕層の子弟に限定されていたら、それから後のアメリカは政治的にも、経済的にも、文化的にも世界の「二流国」にとどまっていただろう。アメリカが今日のような世界のスーパーパワーになりえたのは、出自にかかわらず子どもたちがその潜在能力を開花させ、社会的上昇を遂げることのできる機会を制度的に担保したことが深く関与している。
今でも富裕層・特権層にしか十分な教育機会が提供されていない国はいくらもある。それがフェアであるかどうかについてはそれなりの言い分があるだろうけれども、そういう「受益者負担」原理を貫いている国が、学校教育に潤沢に国民資源を投じる国と比べて、知的に優越するチャンスはきわめて低い(というよりゼロである)。教育への資源投入を惜しむ国が科学的なイノベーションを先導したり、未来社会のあるべきヴィジョンを提示したり、世界標準になるような社会制度を創り出すということはありえない。