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なぜ学校教育に優先的に国民資源を分配しなければならないのか。理由は言うまでもない。集団が生き延びるためである。
2016年7月1日の内田樹さんのテクスト「変わらないことの意味」を採録する。
どおぞ。
なぜ学校教育に優先的に国民資源を分配しなければならないのか。理由は言うまでもない。集団が生き延びるためである。生き延びるためには「使えるものはすべて使う」のは当然である。学校教育を受けられなかったために開花する機会を逸した才能は「社会的損失」としてカウントされるべきである。私はそう考えているし、18世紀の啓蒙思想家たちもそう考えている。けれども、そういう考えをする人は今の日本ではもう少数派である。
人々は学校教育は「商品」であり、それを獲得するためにはしかるべき「代価」を支払わなければならないと信じている。その「代価」を今ここで準備できない者は、その潜在的な才能や未開発の資源の有無にかかわらず、学校教育機会から排除されて当然だという意見が大声で語られている。子どもたちが教育機会を逸することを「社会的損失」だとはもう人々は思っていない。
ものが商品であれば、その通りだ。金のない人間が車を買えなくても、家を買えなくても、服を買えなくても、私たちは別にそのことを「社会的損失」だとは思わない。「車や家や服が手に入った場合になら開花したかもしれない美質、集団を救ったかもしれない才能」というようなものを私たちは思いつかないからである。そして、質の良い車や家や服が手に入った場合に、自分の身に「何が起きるか」、どういう快楽がもたらされるかはほとんど確実に予測できる。だが、そこには何の意外性もない。
学校教育は違う。教育とは「そのようなものが人間のうちに潜在しているとは予測もできなかったもの」が見出され、爆発的に開花し、多様な展開を遂げるプロセスである。学校教育がもたらすアウトカムは原理的に予測不能である。
だから、未来に希望を持っている社会では教育への資源分配は高い優先順位が与えられる。その反対に、人々が未来に希望を持つことのできない社会では教育への資源分配は最低の査定を受ける。勝っている人間が勝ち続け、負けている人間が負け続ける惰性的な社会、一部の特権集団に権力や財貨や情報や文化資本が排他的に蓄積される社会では、人々は教育への資源分配に敵対的になる。それは他に優先的に金の使い道があるからではなく(それもあるが)、何よりもアウトカムが予測不能なプロセスをそのような社会では人々が嫌悪するからである。
「制御できないもの」「既存の物差しで衡量できない価値」の出現を恐れるからである。
OECD調査によれば、GDPに占める教育機関への公的支出の割合で日本は比較可能な32カ国中最下位である。最下位はすでに5年連続である。この不名誉な記録はこれからも更新され続けるだろう。
だが、それを危機的な事態だと思っている人はきわめて少ない。学校教育の現場でさえ、毎年のように公的支援が削られてゆくことを「しかたがない」と思っている人が過半である。
政府が教育への資源分配を惜しむのは、一にも二にも「費用対効果が悪い」からである。平たく言えば、「金にならない」からである。19世紀に公教育への税金の投入を惜しんだアメリカの富裕な「リバタリアン」たちと同じことを政府も財界もメディアも主張している。
事実、私が大学に在職していた最後の時期、文科省が最もうるさく要求していたことは何よりも「すぐに実用に役立つ研究教育をしろ」ということと「どういう努力を入力すると、どういう結果が出力されるか一覧的に示せるかたちで研究教育を行え」ということだった。もう一度同じことを繰り返すが、教育のアウトカムがどういうかたちで開花するかは予測不能である。何がトリガーになって、どのような才能が、どのタイミングで、どんな形態で開花するかは、本人にも教師にも親にも友人にも、誰にもわからない。人間知性はわずかな入力差が巨大な出力差をもたらす複雑系だからである。
にもかかわらず、「制御できないものを制御したい」という不可能な望みを抱く人たちが日本の教育行政を仕切っている。
言うまでもないが、「制御できないもの」を制御することは誰にもできない。だから、選択肢は二つしかない。制御することを諦めて、「制御できないもの」がどういうかたちで発現してもあまり驚かされないような弾力的で可塑的なシステムを以て応じるか、硬直的な「制御するシステム」によって抑え込んで、抑え切れなくなったら自壊するか、二つしかない。
不幸なことに、今の日本の教育システムはすでに後の道を選んで歩き始めている。
こういう穏やかな趣旨の書物の「あとがき」に悲観的な言葉を書き連ねるのは不本意だし、かなり不作法なことだと分かってはいるけれども、130年を超えて守り継がれてきた神戸女学院の教育理念と教育方法を私たちがこの先も守り続けることができるのかどうか、私にはわからない。
世の中には変化してよいもの、変化すべきものと、変化しない方がよいもの、変えてはならないものがある。それを識別することはきわめて難しい。あらゆる制度は、昨日できたものも、100年前から受け継がれているものも、現時的には「今ある制度」として目の前にずらりと並んでいる。昨日できた制度やルールの中にはただの思いつきやもののはずみでかたちになったものが(多数)含まれている。一方、100年前から受け継がれたものには歴史の風雪に耐えたという実績がある。これを同列に「今ある制度」と一括りにすることに私はつよい抵抗を覚える。けれども、現代日本社会では「歴史の風雪に耐えた」というような実績はほとんど評価されない。むしろ、それは社会の変化に抵抗し、「市場のニーズ」に対応することを嫌うという理由でしばしば「よくないもの」に類別される。学校もそうだ。次々と学部学科を新設し、教育プログラムを「ニーズ」に合わせて書き換え、校舎を新設し、組織をめまぐるしく改組する学校が「社会の変化に最適化するアクティビティの高い教育機関」として高い査定を受けている。愚かなことだと思う。
先日、私立医大の同窓会組織の集まりで講演したことがあった。講演に先立つ総会で「卒業生が同窓会活動に非協力的である」という事例が次々報告されていた。どうしたら卒業生たちに母校に対する帰属感や忠誠心を持たせることができるのか、報告者たちは沈痛な面持ちで問題提起していた。
私はその後に登壇して、用意していた草稿を読み上げるのを止めて、「なぜ卒業生たちは母校に帰属感や忠誠心を持たないのか」について私見を述べた。それは学校が「変わり過ぎた」からである。あなたがたはキャンパスを移転し、校舎を新築し、学部学科を新設し、教育プログラムを書き換えることを「高いアクティビティのあかし」だと信じてそうしているのだろうけれど、卒業生はそういうふうには評価しない。自分が学んだ学舎が取り壊されて跡形もなくなったキャンパスに「懐かしさ」を感じる卒業生はいない。自分が卒業した学科がなくなったり、受けた教育プログラムが廃止されたら、卒業生は母校から「あなたが受けた教育はもう時代遅れになった。あなたがこの学校で受けた教育はもう無価値だ」と宣告されたように感じるだろう。実際にそのような「仕打ち」をしておいて、「どうして卒業生たちは母校に愛着を持ってくれないのだろう」と泣訴するというのは筋違いである。
あなたがたの大学の中で、校舎を新築するときに「旧校舎のたとえ一部でも、卒業生のために『記念館』として残しておこう」という提案がなされたところがあっただろうか。たぶん一校もないだろう。少なくとも経営コンサルタントが入るような大学ではそのようなプランは「無駄」として一蹴されたに違いない。ビジネスマンには卒業生の母校に対する愛着や忠誠というようなものを考量する「ものさし」がないのだからしかたがない。そういう話をした。
神戸女学院は幸い校舎が文化財指定を受けたので、これからあと卒業生たちは岡田山に戻るたびに自分が学んだ学舎がそのまま残されているという特権を享受できる。それは「市場のニーズに対応してめまぐるしく変化することを是とする教育機関」が決して手に入れることのできない財産なのである。
もう指定された紙数を大幅に超えたので取り散らかった話をまとめるが、今の日本の教育は「社会の変化に合わせて息せき切って変化しなければならない」という圧力の下で急激に体力を失っている。「市場のニーズに合わせて変われ」とのべつ耳元でがなり続けられているうちに教育機関としての生命力が損なわれているのである。だが、学校教育は医療や司法と同じく定常的であることが手柄であるような制度なのである。経済学者の宇沢弘文はこれを「社会的共通資本」と呼んだ。集団が存続するためになくてはならない制度は、政治イデオロギーや市場の景況や株価の高下のようなものによって変化してはならない。生身の人間を守るための仕組みはまず定常的であることが最優先する。
当たり前のことだが、「学校制度の出来が悪いので、根本的に制度設計をやり直す」ということはできない(「制度が完成するまで、子どもたちは学校に来なくていい」とは言えないからだ)。私たちが相手にしているのは、生身の人間である。それもまだ自分を守る力の十分ではない子どもたち若者たちである。彼らを相手にするときには「これまでこうやってきて、比較的うまくいってきた」という経験知に基づいてふるまう他ない。それが最もリスクが少ないからである。学校教育においてはリスクを冒すということは許されないのである。
私が神戸女学院の教育について言いたいことはそれに尽くされる。変えてはならないものは決して変えてはならない。同語反復に過ぎないのだが、そういう自明の真理を語る人があまりに少ないので、寄稿の機会を奇貨としてここに書きとめるのである。