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6月23日は、沖縄「慰霊の日」である。
そこで、沖縄戦について振り返ってみたい。
1944年3月、南西諸島守備軍として第32軍が創設され、8月、司令官として牛島満・陸軍中将(1887年生まれ)が任命された。
1944年8月22日、学童825人を含む疎開者約1700人を乗せた「対馬丸」が奄美大島近くの悪石島近海で、米軍の魚雷攻撃を受けて沈没した。
生存者は、学童59人、一般168人であった。
1944年10月10日、那覇市を中心に、早朝から午後4時過ぎまで、五波にわたって米艦載機グラマンなどの猛烈な空襲を受けた(十・十空襲)。
来襲した米軍機は、のべ1400機。
被害は、死者600人、負傷者900人、家屋の全壊・全焼約1万1500戸におよび、那覇市の市街地の約90%が焼失した。
1945年3月26日、米軍は、慶良間諸島へ上陸し、沖縄の地上戦がはじまった。
日本軍による直接・間接の命令・誘導などによって、慶良間諸島の住民の「強制集団死」が起こった。
1945年4月1日午前8時30分、米軍は沖縄島の中部西海岸(現在の読谷村・嘉手納町・北谷町)への上陸作戦を開始した。
日本軍は、米軍の本土進攻を遅らせるために持久戦を選び、ほとんど反撃することなく上陸を許した。
九州・台湾の陸海軍による特攻(神風特攻隊)を含む航空作戦を円滑に進めるために、米軍上陸1週間後に、南西諸島守備軍(第32軍)は、2度の総攻撃をしかけた。
戦艦「大和」を主軸とした海上特攻隊も出撃したが、4月7日、九州の南方海上沖で撃沈された。
特攻作戦は、4月6日から6月22日までの間に10次にわたって行われた。
約1900機の航空機が投入されたが、大半は撃墜されてしまった。
沖縄島北部には、国頭支隊(遊撃隊)が配置されていたが、米海兵隊の猛攻で敗残兵となり、食料強奪のために住民を虐殺した。
北部でもっとも戦闘が激しかったのは伊江島であった。
この戦闘における日本側の約3500人の戦死者のうち1500人が伊江島の住民であった。
日本軍に死を強要され、「強制集団死」で亡くなった住民も100人を超えた。
沖縄島中南部では、4月8日ごろ、日本軍が猛烈な反攻をはじめた。
とくに嘉数高地(宜野湾)や前田(浦添)での戦闘は激しく、一進一退の攻防が40日あまりに渡って繰り広げられた。
日本軍は二度にわたる総攻撃をかけたが、主力部隊の大半を失うという惨敗を喫した。
米軍の被害も大きく、5月中旬から下旬にかけて行われたシュガーローフ(那覇市安里の丘陵地)の戦いでは、戦死者約2700人、精神障害者約1300人を出した。
4月上旬から5月中旬までの戦闘で、日本軍は主力部隊の80%(6万4000人)を失った。
米軍も2万6000人の戦死傷者を出した。
この戦闘で多数の地域住民が巻き込まれ、約1万人が亡くなった。
5月22日、沖縄守備軍は首里の司令部壕の放棄を決め、27日夜、南部の摩文仁方面への撤退をはじめた。
傷病兵のうち移動に加われない重症患者は、手榴弾や薬品で「処置(殺害)」された(5000~6000人)。
5月31日、首里の司令部壕は米軍に占拠された。
沖縄守備軍が撤退してきた南部一帯は、琉球石灰岩の自然洞窟(ガマ)が多く、多数の一般住民が避難していた。
そこへ、守備軍と守備軍を頼ってきた住民が移動してきたため、この狭い地域に軍民合わせて十数万人が混在することになった。
6月7日ごろから、米軍は戦車を先頭に火炎放射器などの火器で攻撃し、ガマには爆雷を投げ込んで破壊した。
海からは艦砲射撃、空からは飛行機による爆撃・機銃掃射と、米軍の攻撃は容赦なく続き、夥しい数の人命が奪われていった。
南部戦線は、さながら鉄の暴風が荒れ狂う阿鼻叫喚の巷と化した。
日本兵は、一般住民を壕から追い出したり、食糧を奪ったり、スパイの疑いをかけて殺害したりした。
日本軍によって「強制集団死」に追い込まれた人々も少なくなかった。
6月11日、米軍は、第32軍の司令官牛島満に無条件降伏を勧めたが、牛島はこれを無視した。
6月19日、追い詰められた牛島満は「各部隊は各地における生存者中の上級者之れを指揮し、最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」との軍命を出した。
6月22日(23日説もある)第32軍司令官牛島満は、長勇参謀長とともに自決した。
これにより、摩文仁は米軍によって占拠され、第32軍の司令官指揮による組織的抵抗も終了した。
しかし、最後まで戦うことを命令しての司令官の死は、戦争終結を遅らせただけでなく、いたずらに住民の犠牲を増やすことになった。
久米島では、6月26日に米軍が上陸したことにより、日本軍による住民虐殺事件が相次いで起こった。
米軍は、7月2日に沖縄作戦の終了を宣言したが、日本が敗戦を迎えた8月15日以後も戦い続ける部隊があった。
6月22日以降も沖縄は戦場であり続け、多くの住民が犠牲になった。
沖縄の日本軍が正式に降伏文書に調印したのは、9月7日になってからであった。
沖縄戦による日本側の戦没者数は18万8136人、このうち沖縄の住民は約9万4000人である。
米軍の戦没者数は1万2520人であった。
沖縄戦で、合計20万0656人の命が失われたことになる。
以上が沖縄戦の概要である。
現在、沖縄県条例によって6月23日が慰霊の日と定められている。
沖縄戦で亡くなった20万人の魂を慰霊することはとても大切なことである。
しかし、6月23日は、沖縄戦が終結した日ではない。
6月23日(22日説もある)は、第32軍の司令官牛島満が自決し、日本軍の組織的戦闘が終了した日である。
6月23日以降も沖縄は戦場であり続け、日本が降伏した8月15日以後も多くの犠牲者を出していた。
先日亡くなった大田昌秀・元県知事も「6月23日を戦争終結日とすれば、沖縄戦の重要な側面が歴史から丸ごと消えてしまうことになる」として、6月23日終戦説をとっていない。
沖縄戦は、牛島満司令官の自決を経て、米軍が沖縄作戦終了を宣言した7月2日で一応の終幕となり、降伏調印式をおこなった9月7日に公式に終結したのである。
沖縄市は、9月7日を「沖縄市民平和の日」と定めている。
(このブログは、新城敏昭著「沖縄から見える歴史風景」(編集工房東洋企画)を参照して作成した。)