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『源氏物語』というのは「こうした状況」、つまり二つの世界の間にかなり自由な行き来がなされる状況の物語ではないか。そして、それこそが日本文学の正系につらなる物語ではないのか。
2017年5月14日の内田樹さんのテクスト「村上春樹の系譜と構造」を紹介する。
どおぞ。
「暗闇に侵入したあなたはそのとき恐ろしくなるでしょうが、また別のときにはとても心地よく感じるでしょう。そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に形而上学的な記号やイメージがつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。(…)僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらのものはむしろ自然なものとして目に映ります。こうした要素が物語をかくのをたすけてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど目覚めながら夢を見るようなものです。それは、論理をいつ介入させられるとはかぎらない。法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。」(同書、156-157頁)
この箇所を読んだときに、多くの読者は『騎士団長殺し』の後半で「私」が雨田具彦のいる老人養護施設の床に穿たれた穴から潜り込んでいった「メタファー通路」での経験を思い出すことでしょう。あるいは『海辺のカフカ』でカフカ少年が踏み込んでゆく「森の中核」での経験を。そこに描かれている一連の説明不能のものは、作家が文学的効果を狙って技巧的にしつらえた装飾的なミスティフィケーションではなく、おそらく作家「目覚めながら見た夢」なのだと思います。それが何を意味するのかは書いている作家自身わからない。それが何を意味するのかを知りたいからこそ作家は書いている。そういうことだと思います。
この闇の中に下ってゆき、また戻ってくる物語、「冥界下り」という物語もまた、人類の歴史と同じだけ長い系譜を有するものです。でも、ここでは日本の近世文学以降に時代を限って、その系譜をたどってみたいと思います。
先の引用中で「古代の闇」と言われたものを別のところで村上春樹は「前近代の闇」と言い換えています。日本の近代文学が否定し去ったものです。そして、自分自身はその闇を語るという点で上田秋成の直系に連なるということを認めています。
「『雨月物語』なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。それをいわゆる近代小説が、自然主義リアリズムということで、近代的自我の独立に向けてむりやり引っぱがしちゃったわけです。個別的なものとして、『精神的総合風景』とでもいうべきものから抜き取ってしまった。」(同書、93-94頁)
近現代の文学においてももちろん「非現実」は描かれます。けれどもそれはあくまで現実から切り離された、一種の文学的意匠であり、作中で登場人物が見る夢とか幻想とかあるいは劇中劇とか誰かが書いたファンタジーというような「額縁」がつけられており、現実と非現実が境界を越えて、同じ次元で混ざり合うことには厳重な方法的抑制が課されています。しかし、村上春樹は自由にこの境界線を行き来することこそが日本文学の骨法ではないかという大胆な仮説を語ります。
『海辺のカフカ』の中の「非現実的」な登場人物について村上春樹はそれは「存在する」と書いています。
「僕が読者に伝えたかったのは、カーネル・サンダースみたいなものは実在するんだということなんです。彼は必要に応じて、どこからともなくあなたの前にすっと出て来るんだ、ということ。それこそタンジブルなものとして、そこにあるんです。手を延ばせば届くんです。僕は彼を立ち上げて、彼について書くことを通して、そういう事実を読者に伝えたいわけです。」(同書、127―8頁)
「僕の場合は、(…)そういう現実と非現実の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれるわけです。日本の近代というか明治以前の世界ですね。(…)日本の場合は自然にすっと、こっち行ったりあっち行ったり、場合に応じて通り抜けができるんだけれど、ギリシャ神話なんかの場合は、本当に自分の考え方とか存在の在り方の組成をガラッと変換させないと向こう側の世界に行けない。」(同書、94頁)
東洋と西洋では現実と非現実を隔てる「壁の厚さ」が違う。このことに村上春樹の自らの文学的立場についての自覚が現れます。
「日本や中国では、並行する二つの世界があって、そのあいだにある架け橋が、一方の世界から他方の世界への移動を難しくしすぎないようにしている、と考えられています。西洋ではそんなわけにはいきませんよね。この世界はこの世界、あの世界はあの世界、といった具合になっています。分離は厳格です。乗り越えるにしては、壁はあまりにも高すぎ、あまりにもしっかりしています。しかしアジア文化は違うんです。僕が思うに、〈もののあわれ〉が描いているのは、こうした状況です。」(同書、157-158頁)
村上春樹はここで唐突に「もののあはれ」という古典文学の美的概念を持ち出してきました。僕はこれは直接には『源氏物語』のことを指しているのだと思います。『源氏物語』というのは「こうした状況」、つまり二つの世界の間にかなり自由な行き来がなされる状況の物語ではないか。そして、それこそが日本文学の正系につらなる物語ではないのか。
村上春樹はかつて河合隼雄にこんな質問を向けたことがありました。
「村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。
河合 どういう超自然性ですか?
村上 つまり怨霊とか…
河合 あんなのはまったく現実だとぼくは思います。
村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?
河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」
(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、岩波書店、1996年、123-124頁)
この対談があった時点(1995年)では村上春樹は自分の作品の中で、境界を越えて非現実が侵入してくることは、一種の「装置」、一種の文学的技巧ではないのか(でも、そんなはずはない)という揺らぎのうちにあったことが言葉づかいからは窺えます。でも、このときの「あんなのはまったく現実だとぼくは思います」という河合隼雄の断定でふっきれた。
それは『源氏物語』の中の怨霊の物語が、それからのちに村上春樹のいくつかの作品に意匠を換えて繰り返し登場してくることからも知れます。六条の御息所の生霊が葵上を祟り殺すというのは『源氏物語』の中で最もカラフルな怨霊物語ですけれど、これは六条の御息所という高貴な女性が「嫉妬」という筋目の悪い感情を抱くことを拒絶したことから起こる惨劇です。
これに物語的にもっとも近いのは短編集『女のいない男たち』に収録されている「木野」です。
木野は「会社でいちばん親しくしていた同僚と妻が関係を持っていたことがわかった」ときにひとり家を出て、会社も辞めます。そして伯母から青山の小さな喫茶店を譲り受けて、オーディオ装置に凝ったジャズバーを始めます。
「別れた妻や、彼女と寝ていたかつての同僚に対する怒りや恨みの気持ちはなぜか湧いてこなかった。もちろん最初のうちは強い衝撃を受けたし、うまくものが考えられないような状態がしばらく続いたが、やがて『これもまあ仕方ないことだろう』と思うようになった。結局のところ、そんな目に遭うようにできていたのだ。」(「木野」、『女のいない男たち』、文藝春秋、2014年、221頁)
木野は「怒りや恨み」を感じません。「痛みとか怒りとか、失望とか諦観とか、そういう感覚も今ひとつ明瞭に知覚できない」(同書、221頁)まま日を過ごすうちに、木野のまわりに異変が起こり始めます。客同士の陰惨なトラブルがあり、体中に煙草の焼け跡のある女と交わり、開店のときに「良い流れ」を運んできてくれたように思えた猫が姿を消し、邪気を帯びた蛇たちが姿を見せ始めます。そして、ある日店の「守護者」の役割を果たしていたカミタという客から店を閉めるように忠告されます。木野はその忠告をこう解釈します。
「カミタさんが言うのは、私が何か正しくないことをしたからではなく、正しいことをしなかったから、重大な問題が生じたということなのでしょうか? この店に関して、あるいは私自身に関して」(同書、248頁、強調は村上)
木野はカミタの忠告に従って旅に出ますが、「カミタに固く禁じられていた」私信をしたためるという禁忌を犯したせいで深夜のホテルの部屋に執拗なノックの音を呼び寄せてしまいます。そのとき木野は自分が何を招き寄せたのかを知ります。
「『傷ついたんでしょう、少しくらいは?』と妻は僕に尋ねた。『僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく』と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。」(同書、256-257頁、強調は村上)
物語は木野が「そう、おれは傷ついている、それもとても深く」(同書、261頁)と認めたところで救いの予感のうちに終わります。
傷つくべきときに十分に傷つき、痛切なものを引き受けること。それが怨霊を解き放たないためには必要なことだったのでした。六条の御息所がその引き受けを拒絶した「妬心」は人一人を殺すほどの現実的な力を持ちました。木野がその引き受けを拒絶した「妬心」は彼自身に戻ってきます。
この物語を書きながら村上春樹は自分が『源氏物語』の世界と地続きの文学的風土のうちにいることに十分に自覚的だったと僕は思います。