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村上春樹の系譜と構造(最終回) ☆ あさもりのりひこ No.387

村上春樹が過去の日本人作家としてはっきりとした「地続き」感を持っているのは上田秋成です。

 

 

2017年5月14日の内田樹さんのテクスト「村上春樹の系譜と構造」を紹介する。

どおぞ。

 

 

村上春樹が過去の日本人作家としてはっきりとした「地続き」感を持っているのは上田秋成です。そのことは作家自身がいくどか書いています。

そして、まったく別の文脈においてですが、江藤淳は、上田秋成の文学の本質は「闇」のうちにあるという指摘をしています。

秋成もまた現実と非現実の境界を行き来する経験を書き続けた作家でした。秋成は現実にはそこに存在しないにもかかわらず、濃密な実在感をたたえ、人間の生き死ににかかわるもののことをかつて「狐」と呼びました。狐憑きの狐、人をたぶらかす妖獣です。そういうものが秋成の時代の人々の日常生活のうちにはたしかなリアリティを持って存在していた。けれども、当時でも、知識人たちは妖怪狐狸についての物語を荒唐無稽と一蹴しました。彼らの見るところ「狐憑き」はただの精神病に過ぎません。その中にあって、秋成はあえて「狐」を擁護する立場を貫きました。その秋成の立ち位置について江藤淳はこう書いています。

「儒者の眼に見えるのは、病気という概念であって、『狐』という非現実の現存がもたらす圧力ではない。しかし、いったんアカデミイの門を出てみれば、『うきよ』に顔をのぞかせるのはつねに概念ではなくて、『狐』に憑かれた人間の奇怪な、しかし秩序の拘束のなかにいる『精神(ココロモチ)平常』なときにはたえてみられないほど濃い実在感に満ちた姿態である。あるいはまた、どうしても認めざるを得ない非現実の世界からのさまざまな信号である。」(江藤淳、『近代以前』、文藝春秋、1985年、238頁)

秋成自身はありありと「狐」の実在を感じました。学者や常識人がどれほど否定しても、市井の人々が現にその切迫を感じ、「非実在の現存がもたらす圧力」を受け止めたり、それから身をかわしながら現に日々の生活を送っているという事実は揺るぎません。

「誰の眼にも見えぬこの動物ほど濃い実在感をあたえるものを、秋成は外界の現実のなかにひとつもみとめることができなかった。」(同書、240頁) 

「狐」は秋成が彼の地下二階で出会った「奇妙なもの」の別称です。その地下の「闇」のうちで「人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみ」、その「根源的な記憶」を作品に写し出したときに『雨月物語』という作品が生まれました。それはもしかすると東洋人の作家にしかうまく書くことのできない物語だったのかもしれません。その「闇」には太古からこの地で生き死にした無数の人々の記憶が埋蔵されているからです。

そして、江藤淳は日本語について、こう書いています。

「それは、現在までのところ沖縄方言以外に証明可能な同族語を持たぬとされている特異な孤立言語であり、時代によって、あるいは外来文化の影響をうけてかなりの変化を蒙って来てはいるが、なお一貫した連続性を保って来たものである。しかもそれは虚体であって実体ではない。ということは、私はそれを自分の呼吸のようなものとして、あたかも呼吸が自分の生存と存在の芯に結びついているように自分の存在の核心にあるものとして、信じるほかないということだ。」(同書、23〜24頁)

たしかに私たちは外国語によって対話することはできますし、ある程度リーダブルな文章を書くこともできます。でも、よほど例外的な才能を除いては、外国語によって文学的な「創造」をすることはできません。それは母語によってしかできない。私たちは母語を糧として生きています。その無尽蔵のアーカイブから、私たちは死者たちの脳裏にかつて一度も浮かんだことのない思念や、死者たちの舌にかつて一度も乗ったことのない言葉を掘り起こしてくることができます。母語のアーカイブの深みのうちで、私たちは(レヴィナスの言葉を借りて言えば)「一度も現在になったことのない過去」に出会うのです。

私たちが「新語」を作ることができるのは母語においてだけです。「新語」とはただの新しい単語のことではありません。それを口にしたときに、他の母語話者たちが、はじめて聞くその新しい語の新しい意味とそのニュアンスを瞬時に了解できるという条件を満たさなければなりません。そのような曲芸的なことを私たちは母語においてしか実行できません。どれほど流暢に話せても、外国語で新語を作ったり、その場で思いついた文法的な破格や意図的な誤用や新しい音韻のニュアンスを周囲の人たちに瞬時に理解させることはできません。それは母語においてのみ可能なわざだからです。それが可能なのは、現に用いている言語の基層に、その何万倍もの奥行きと深みを持つ「死者たちと共有する言語」のアーカイブが存在しており、私たちはそれを利用することが許されているからです。こう言ってよければ、死者たちと言語を共有しているからこそ言語による創造が可能になるのです。

村上春樹は長く海外で生活をしており、執筆も海外でしていました。けれども『ねじまき鳥クロニクル』を書き上げたときに日本に帰ることを決意します。

「どうしてだかわからないけれど、『そろそろ日本に帰らなくちゃなあ』と思ったんです。最後はほんとうに帰りたくなりました。とくに何が懐かしいというのでもないし、文化的な日本回帰というのでもないのですが、やっぱり小説家としての自分のあるべき場所は日本なんだな、と思った。

というのは、日本語でものを書くというのは、結局思考システムとしては日本語なんです。日本語自体は日本で生み出されたものだから、日本というものと分離不可能なんですね。そして、どう転んでも、やはり僕は英語では小説は、物語は書けない。それが実感としてひしひしとわかってきた、ということですね。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、3738頁)

江藤淳はプリンストン大学で日本文学を講じた時期がありました。アメリカでの生活を通じて、英語で話し、英語で書き、英語で考えることに慣れたあとに、江藤は日本語という「沈黙の言語」の外では自分は創造ができないということに気づきます。

「思考が形をなす前の淵に澱むものは、私の場合あくまでも日本語でしかない。語学力は習慣と努力によってより完全なものに近づけられるかも知れない。()しかし、言葉は、いったんこの『沈黙』から切りはなされてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この『沈黙』とは結局、私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界-日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路だからである。このような言葉の世界に『近代』と『近代以前』の人為的な仕切りを設けることは不可能である。私はむしろ連続を問題にしなければならない。」(江藤淳、前掲書、29-30頁、強調は内田)

この文章を書いたときの江藤淳はその五十年後に「近代と前近代の人為的な仕切り」を軽々と越境する作家が登場して、全世界に読者を獲得することをまだ知りません。でも、まさに「地下二階」の闇のうちに踏み込むことを自らの文学的方法として自覚した作家の登場によって、江藤の文学的直感の正しさは論証されることになったのでした。

 

以上、村上春樹文学の系譜と構造について、僕自身のアイディアのいくばくかをお話ししました。最初に申し上げた通り、これらのアイディアはとくに学術的に厳密なものではありません。ですから、僕はこれを「定説」として頂きたいというような無法なことを願っているわけではありません。僕の願いは、こういうアイディアを耳にした人たちがそれに触発されて、村上春樹作品の「新しい読み」を思いついてくれること、それによってこの作家の書く物語からできるだけ多くの愉悦と、そしてできることならいくばくかの癒しを引き出すことに尽くされます。

 

(これは2017年4月14日、淡江大学村上春樹研究センターにおいての講演に大幅な加筆をしたものです)