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そろそろ「新しいもの」が出てきてもいい頃です。「新しいもの」は、つねに思いがけないところから、それまでとはまったく違う文脈の上に登場する。
2017年6月16日の内田樹さんのテクスト「「内田樹の大市民講座・直感はわりと正しい」文庫版あとがき」を紹介する。
どおぞ。
みなさん、こんにちは。内田樹です。『大市民講座』が文庫化されることになりました。手に取ってくださったことについてお礼申し上げます。
単行本の「あとがき」を読むと、大瀧詠一さんが亡くなった翌年に単行本が出たことがわかります。それから3年経って、今度は文庫化されることになりました。単行本刊行時点で「過去6年半」分を収録したわけですから、現時点から起算すると、一番古いものは9年前に書かれていることになります。
「まえがき」でも「リーダビリティ」について少し書いていますけれど、それだけ時間が経ってしまった後になお時評がリーダブルでありうるのかどうか、僕にとってもたいへん気になるところです。
今回ゲラを読み返してみて一番経年変化が激しいのは「政治についての話」だということがわかりました。扱われている事件がどんな出来事だったのか書いた本人にも思い出せないというようなトピックさえ散見されます。それだけ主役の交代がめまぐるしかったということでしょう。この時評を書いていた時期の政局のキープレイヤーだったのは、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、小沢一郎、福田康夫、与謝野馨、安倍晋三、橋下徹、石原慎太郎といった人々でした。いまだに当時と同じくらいの政治的プレゼンスを保持しているのはもうその半数にも及びません。鬼籍に入った方もおられます。それだけでも、政治プロセスの変化がいかにめまぐるしいものかわかります。
そのせいもあって、この時評の中で僕が書いた政治についての未来予測は「これから日本の政治プロセスはますます劣化するだろう」ということ以外はほとんど外れました。政治についての未来予測のむずかしさが改めて身にしみます。
けれども、予測が当たらなかったということをこうやってちゃんと記録しておくことは、けっこう大事だと思います。過去のある時点では「未来は霧の中だった」ということを僕たちはつい忘れがちです。何の根拠もなく、過去から現在まで、歴史は一本道を予定通りに進行してきた・・・という印象を持ってしまう。でも、そんなことはないんです。明日は何が起きるかなんて、ほんとうに誰にもわからない。
映画『バック・トウ・ザ・フューチャー』で1985年から30年前の過去にタイムスリップしたマーティ(マイケル・J・フォックス)が、タイムマシンの発明者であるドク(クリストファー・ロイド)を探し出して、「未来のあなたによって過去に送り込まれたのだ」という話をなんとか信じさせようと悪戦苦闘する場面があります。そのときに、半信半疑(というより一信九疑くらい)のドクが「じゃあ聞くが、1985年のアメリカ大統領は誰だ?」と尋ねる場面があります。マーティがうれしそうに「ロナルド・レーガン!」と答える、ドクが「俳優の? よくそんな嘘がつけるな。だったら、副大統領はジェリー・ルイスだろう」とせせら笑うのです。たしかに1955年に「あと30年後にロナルド・レーガンがアメリカ大統領になるよ」と予言したとして、信じてくれる人はアメリカ市民の5%にも達しなかったでしょう。
同じようにタイムマシンで今から5年前にタイムスリップして、「あと5年後のアメリカ大統領はドナルド・トランプだよ」と言ったらどうなるでしょう。「『アプレンティス』で『お前は首だ!』っているあいつが? よくそんな嘘がつけるな!」とアメリカ市民の99%が腹を抱えて笑ったでしょう。(たしか『ダークナイト』でも、パーティにブルース・ウェインが遅れて登場したときに誰かが「今までドナルド・トランプがいたのよ」と言うという場面がありました。「そういうにぎやかなパーティには必ず顔を出す人」だったんでしょうね)。
それくらいに先のことはわからないということです。ですから、こういうタイプの時評から得られる教訓の一つは、「なるほど、たしかに未来は霧の中なのだな」と深く得心して頂いて、3年後、5年後どころか1年後半年後に日本社会がどうなっているかでさえ、現段階で適切に予測している人なんかどこにもいないということを改めて思い知ることだと思います。
それからもう一つ。話がくるりと反転しますが、これくらいに長期にわたる時評を読み通すと、細部ではいろいろと「お門違い」なことを書いていますけれど、大筋において変わっていない現実もあるということがわかります。僕はそれを「強い現実」というふうに呼んでいます。
「強い現実」というのは、ある分岐点にさしかかって、右に行くか左に行くか迷ったとき、どちらの道を選んでも変わらない現実のことです。
一連の時評を通じて、僕がまったくぶれずに言い続けていることがあります。それは日本はアメリカの属国であり、主権国家ではない、ということです。主権国家でない国でありながら、主権を有していて、すべての政策を自己決定しているような「ふり」をしている。そのせいで、「国家主権の回復」という最優先の国家的課題は隠蔽され、果たされぬままに放置されている。これは集団的な自己欺瞞という他にありません。
日本人はこの現実から集団的に目を背けています。でも、現実から目を背けることができるのは、「それが現実だ」ということを知っているからです。知らなければ「目を背ける」というような芸当はできません。知らなければ、うっかり目を向けて、現実を知ってしまったということだって起こり得ますから。でも、そういう「事故」は起きません。だから、日本人はみんな知っているんです。自分たちがアメリカの属国民であり、主権国家の国民ではなく、国の運命を自己決定できないでいるということを知っている。
ですからもちろん「主権者」でもありません。国に主権がないのに、国民が主権者であるはずがないです。
学校で憲法について学んだ時に「主権在民」と教えられても今一つぴんと来なかった方は多いと思いますが、それはどう考えても、自分がこの国の主権者だという実感がなかったからです。そして、その実感はたしかに正しいのです。
日本が主権国家でないことの証拠に、僕はさまざまな媒体を通じて「戦後の日本はアメリカの属国であり、主権国家ではない」と繰り返し書いていますけれど、かつて一度も反論を受けたことがありません。
僕を論駁するのは実に簡単です。「ふざけたことを言うな、日本は主権国家である。現に、アメリカの国益よりも自国益を優先させ、アメリカの要望を退け、アメリカを憤激させ、両国間の関係がいっとき緊張したが、それに屈することなく最後まで要求を貫いたという、これこれこういう歴史的事実があるじゃないか」と、実例を一つでも挙げてくれればよろしい。それ一つだけで、僕の立論は土台からがらがらと崩れます。でも、これまで誰一人そのような歴史的事実を示してはくれませんでした。
日本人は自分たちが主権国家の国民ではないという事実を意識下に抑圧しています。事実を直視し、それを実践的に補正するという努力を放棄してしまった。抑圧されたものは症状として回帰する。まことにフロイト先生の言う通りです。この言葉は日本の現実をみごとに言い表していると思います。
日本社会が罹患しているさまざまな病は「抑圧されたものの効果」なのです。この点については、表層的な現象がどれほど多様であろうとも、本質は変わることがありません。僕はそれを日本における「強い現実」だとみなしています。とりあえず、そのことがこの時評を通読することで明らかになるのではないかと思います。
でも、それでもそろそろ日本の病態にも僕は飽きてきました。みなさんもけっこううんざりしてきているんではないでしょうか。そろそろ「新しいもの」が出てきてもいい頃です。「新しいもの」は、つねに思いがけないところから、それまでとはまったく違う文脈の上に登場する。これは大瀧詠一さんが音楽について述べた言葉ですけれども、政治でも、経済でも、社会現象でも、文化的な創造でも、同じことが言えると僕は思います。
「まさか、こんなものが、こんなところから出てくるとは思わなかったよ」という言葉を(できれば喜びにあふれた)嘆息と共に発することができますように。読者のみなさんと共に祈りたいと思います。