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街場の五輪論 むかしの前書き(後編) ☆ あさもりのりひこ No.406

正直言って、私たちは「五輪なんかどうだっていい」と思っている。

 

 

2017年7月31日の内田樹さんのテクスト「街場の五輪論 むかしの前書き」を紹介する。

どおぞ。

 

 

同じことは二年前の大阪市長選挙のときにも感じた。私は大阪維新の会という政治勢力が世界的なグローバリズムの政治的尖兵であり、その政治目標が国民国家と地方自治体の「株式会社」化とデモクラシーの空洞化にあると直感したので、橋下候補の政治的意見を批判した。次々と新聞社が取材に来た。あまりに取材が続くので、「私の他に橋下さんを批判する学者はいないのですか」と訊いたら、「いない」と言われた。あとは北大の山口二郎、中島岳志、立教の香山リカさんくらいですと教えられた。地元大阪や京都の学者で橋下批判をした教員はきわめて少ない。大阪のある私学の教員は例外的にメディアに橋下批判を書いたが、すぐに大学の上層部に呼び出されて「やめろ」と言われたそうである(ご本人から聞いた)

なぜ地元の学者たちは橋下批判を控えるのかと重ねて訊いたら、ある新聞記者が「仕返しが怖いのです」と教えてくれた。だが、私はこの説明は奇妙だと思った。いったい一地方自治体の首長が、彼の政治的意見や政策を批判した民間人にどんな「仕返し」ができるのか。いくらなんでも、日本はそのような無法な国ではない。私はそう信じている。彼はメディアを通じて私に反論したり、場合によっては私を罵倒したりはするだろうが、それは彼の当然の市民的な権利である。まさか、彼が隠然たる政治力を利用して、私に「仕返し」をするようなことはあるはずがない。私はそれくらいには日本の法治と橋下徹の市民的常識を信じている。だから、心おきなく批判したけれど、近畿圏の大学教員たちの中では、私のように考えた人はむしろ少数であった。

私にはそのことに衝撃を受けた。彼らは実効的な法治も、民主的に選ばれた政治家の常識も信じていない。たしかにそれはある種の健全な懐疑精神の発露であるかも知れない。何も信じないという猜疑心の深さと知性の厚みの間にはもしかすると一定の相関があるのかも知れない。しかし、彼らがその懐疑精神を豊かに発動して無言を貫いたせいで、ある政治勢力については自由に語ることが「できない」という「空気」が現実に醸成されてしまった。語ることを控えた学者たちは、そのことについていくばくかの責任を感じてもよいのではないかと私は思う。

それと同じような無言の同調圧力を私は五輪招致という論件についても感じる。「そんなことを言っても、いまさら始まらない」という無力感と世論の中で孤立して無用のバッシングを浴びたくないという恐怖心が、五輪問題についての「そんな話、オレは知らんよ」というシニカルな態度を導き出しているということはないのだろうか。

というようなことを書くと私はますます嫌われ、ますます孤立するわけだが、それでも誰かがこの面倒な仕事を引き受けなければならないという確信は揺るがない。日本社会では、どのような論件についても無力感や恐怖感を感じることなく、自分の意見を述べる権利が保障されているということを公的に確認するために、どんなに賛同者の少ない少数意見であっても、一応言ってみるというのはたいせつなことである。

正直言って、私たちは「五輪なんかどうだっていい」と思っている。でも、「だから黙っている」という選択肢はどうも許されないような言論状況であるので、この本を作ることになった。

だから、この本について言えば、そこで語られていることよりも、「こういうことを語る人がこの三人の他にあまりいない」という言論状況そのものの方が問題なのだ。「語られているコンテンツ」より「そのようなことが語られることに対して抑圧が働いている」という事実の方が重いということである。

だから、この本を読んだ方に持って頂きたい感想は「これくらいのことは、言っても大丈夫なんだな」ということである。何人かの読者が「自分の感じていた息苦しさが少し緩和した」と思ってくれたら、それだけでもこの本を出した甲斐はあったと思う。

 

鼎談に集まった三人はそのような「炭坑のカナリア」の役目を引き受けることを自分の物書きとしての責務の一部だと感じている人間たちである。カナリアが鳴いているうちは大丈夫である。だが、彼らが鳴き止んだら、そのときはみなさんはできるだけすみやかに今いる場所から逃げ出した方がいい。そのときにまだどこかに逃げる場所があるかどうかはわからないけれど。