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英語の未来(前編) ☆ あさもりのりひこ No.415

植民地というのは宗主国の言語をうまく話すことができる人間と、そうではない人間の間に乗り越え不能の階層差が生じる場所のことである。

 

 

2017年8月26日の内田樹さんのテクスト「英語の未来」を紹介する。

どおぞ。

 

 

このところTwitter中心の発信で、ブログにまとまったことを書くということをしていなかった。締め切りに追われて、それどころじゃなかったのだけれど、やはりブログの更新が滞ると寂しいので、今日からまた再開することにした。

以前は毎日のようにブログにエッセイを書いていた。

前にも書いたけれど、これはバーナード・ショーに学んだ。

ショーは毎日『タイムズ』の読者からのお便りコーナーに投稿することを日課としていた。『タイムズ』は毎日バーナード・ショーから無料エッセイが届くのだからありがたい限りであるけれど、それでも毎日「読者のお便り」コーナーに掲載するわけにはゆかない。ときどき掲載して、残りは没にしていた。

でも、ショーは原稿をタイピングするときにコピーを取っておいて、投稿したものが何年分かたまったところで、それを出版社に持ち込んで本にした。

「なんと無駄のない人生であろう」とぱしんと膝を打ち、それからショーに倣って私も毎日のようにネットにエッセイを書くことにしたのである。実際そうやって書き溜めたものがある日編集者(内浦亨さん)の眼に止まり、それが単行本(『ためらいの倫理学』)になったことで私の物書き人生は始まったのである。

Twitterよりブログの方がエッセイを書く上ではアドバンテージが多い。

字数が多いので、書きたいだけ書けるということが第一だけれど、それ以上に私にとってありがたいのは、新聞や雑誌の記事とか本からの引用とかの書誌情報を整えて書いておくと、あとで調べ物をするときにたいへん便利だということである。

Twitterは字数がわずかだから、引用とか統計データの数字とかを備忘のために書き留めておくためのツールではない。ブログは「備忘録」として使い勝手がよい。検索もしやすい。実際に、あるトピックでメディアから寄稿依頼されたとき、過去のブログをキーワード検索してでてきたエッセイをスクロールすると、必要な情報はだいたい収まっている。場合によってはそのままコピペして原稿として出すこともある。二重投稿というのは学術的にはやってはいけないことなのだけれど、個人的に書いて無償公開していた覚書を有料原稿に書き換えるだけなので、誰からも文句を言われない。

この910月は比較的締め切りが少ないので、この隙間を縫ってブログを少し続けて書くことにする。

『中央公論』8月号が「英語一強時代 日本語は生き残るか」という特集を組んでいた。読みでのある特集だった。『日本語が亡びるとき』で問題提起をした水村美苗さんのインタビューが最初にあって、重要な指摘をしていた。

一つはイギリスのムスリムの女性学者ふたりが日本を訪れたときに水村さんに言った言葉。

「その時、彼女らが、『日本では英語がまったく通じない。なんて気持ちのいい国なんでしょう』と言うのです。日本においてはみなが日本語で通じ合い、英語で通じ合えることがエリートのサインではない。英語ができる人が威張っており、収入もよく、社会の権力側に立つという構造になっていないと言うのです。パキスタンでも、インドでも、それからブラッドフォードでも、英語が流暢か流暢でないかによって、階層が作り出されている。現に彼女たちの親は、その英語のアクセントで、たんに言葉が流暢ではないという以上の意味をもって、差別されている。

私は日本にはそういう構造の社会にだけはなってほしくないし、そうなるのを免れた歴史を大事にしてほしいと思うのです。世界を見回せば、インテリが読む言語は英語で、それ以外の人が読むのが現地語だという国がいかに多いことでしょう。」(水村美苗「言語の植民地化に日本ほど無自覚な国はない」、『中央公論』2017年8月号、中央公論新社、28頁)

「私は最近いよいよごく少数を除けば、日本人は日本語が堪能であればよいのではないかと考えるようになっています。非西洋圏でここまで機能している言語を国語として持っている国は本当に珍しいのです。エリートも庶民も、全員当然のように日本語で読み書きしているという、この状況を守ること自体が、日本という国の使命ではないかとすら思います。」(同書、29頁)

前半の引用には私は全面的に賛成である。言語(それも会話時の発音)による階層差別をverbal distinction と言う。肌の色でなされる差別と構造的には同じである。口を開けば一瞬でその人が「自分たちの仲間であるかないか」が判定できる。

バーナード・ショーは(今日はショーさんの出番が多い)『ピグマリオン』(『マイ・フェア・レディ』のオリジナル戯曲)の冒頭で、口を開けば出身地や所属階層や学歴や職業までがわかってしまうイギリスの言語状況を嘆き、全員が所属階層にかかわりなく「美しい英語」を語る理想的な言語環境を望見するヘンリー・ヒギンズに演説を語らせる。

もちろん、そんなことは不可能なのであって、ヒギンズはすさまじいコックニー訛りで話すイライザが「王族のような英語」を語り出すと、彼女の言葉が指示する所属階層に(それが虚構と知りつつ)魅力を感じてしまうのである。

言葉による差別というのは、一度始まると止めることができない。

植民地というのは宗主国の言語をうまく話すことができる人間と、そうではない人間の間に乗り越え不能の階層差が生じる場所のことである。

水村さんが「植民地化」と言っているのは、そのことである。