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奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り(第2回) ☆ あさもりのりひこ No.465

すぐれたストーリー・テラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第2回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

2《体内の蛇》

 「体内の蛇」はひろく世界に分布した都市伝説元型の一つである。最も古いヴァージョンは16世紀に遡るというこの伝説の基本的なプロットは次のようなものである。

 不用意な行動(蛇の精液のついたクレソンを食べる。湖で泳いでいるときに蛙の卵を呑み込む。池のほとりで口をあけて昼寝をする)のせいで蛇(場合によっては蛙、山椒魚、蜥蜴)が人間の体の中に入ってしまう。蛇はそのまま体内で成長し、そしてあるとき食べ物の匂いにつられて食事中に喉を遡って口から出てくる。この最後の場面はしばしば人間に致命的なダメージを与える。

 よく知られたヴァリエーションの一つに1916年頃にイギリスでひろまった「蛙を呑み込んだ婦人」の話がある。蛙の卵を呑み込んでしまった婦人の胃の中で蛙が成長する。苦しくてたまらないが、蛙が動き回るので手術ができない。最後に思い余って婦人の舌にチーズを一切れのせたら、蛙がその匂いにつられて食道をのぼってきた。しかしそのために婦人は窒息死してしまう。

 リドリー・スコット監督の第一作『エイリアン』の衝撃的シーンはこの古典的都市伝説を忠実になぞっている。

 宇宙船ノストロモ号の7人の乗組員は地球への帰路、意味不明の信号を傍受して、発信地の星に降り立つ。そこで探検に出た乗組員たちは朽ちた宇宙船と化石化したエイリアンと無数の卵を発見する。一人の隊員が卵を調べようとしてかがみ込んだときに、卵の口が開いて中から異星人の幼体が跳び出し、彼の顔面にはりついてしまう。蜥蜴の尻尾を持つ蟹に似たこの幼体(Face Hugger)は意識を失った寄生主とともに宇宙船に入り込む。フェイス・ハガーは顔にはりついているだけでなく、体内に深く触手を挿入しながら、酸素を送り込んで寄生主を殺さないようにして一種の共生関係を作り出している。船長とサイエンス・オフィサーが電気メスではがそうとするが、フェイス・ハガーの傷口から流れ出る強い酸によって宇宙船の船体そのものが浸食され、それ以上手を出すことができない。

 やがてフェイス・ハガーは顔から自然に剥離し、枯死する。隊員は意識を回復する。回復を祝って食事が始まり、彼は猛然たる食欲を示すが、突然、強烈な腹痛のために痙攣し始める。そして全員におさえつけられた彼の腹を喰い破って第二段階への形態変化を遂げた蛇状のエイリアンが出現し、返り血を浴びて呆然としている乗組員を嘲笑うかのように奇声を発して姿を消す。

 映画を見たひとたちの多くが「最も衝撃的」としているこのエピソードはごらんのとおり、「体内の蛇」のモチーフをそのままに再現している。

 はじめに「不注意な行為」(「卵」に顔を近づける)があり、その結果「卵」が体内に送り込まれる。手術の試みは失敗し、最後に「食事の匂いにつられて」「蛇」が出現し、犠牲者は死ぬ。

 この元型的想像が何を象徴しているのかを推察することはそれほどむずかしい仕事ではない。

 体内に「蛇」の「卵」が入り込み、成長し、宿主の腹を膨らまし、最後に腹を破って出てきて、宿主を死に至らしめるという話型は、「蛇」が精神分析的に何を意味するかというようなことを詮索しなくても、「妊娠と出産」のメタファーであることは誰にも分かる。

 女性の意に反して(多くは「不注意」から)、男性という異物の「卵」(精液)がその体内に入り込む。それは成長し、腹を膨らませて母体を苦しめ、あげくに彼女に最初に暴力的に侵入した「蛇」のコピーを再生産させて、彼女を「殺す」。

 この元型説話は「生殖」という女性の生物学的宿命そのものに対する恐怖と嫌悪を表している。「母」とはどのように神話的に脚色しようと、つきるところ「男」が自己複製をつくるための「道具」にすぎないとこの物語は教えているのである。

 生殖に対する恐怖と嫌悪をあらわに示し、男性の自己複製の道具となることを拒絶することがきびしく禁圧されるとき、無意識の領域に追放された欲望は必ず「物語」を迂回して「検閲の番人」の監視をくぐり抜け、意識の表層へと回帰してくる。そのようにして「体内の蛇」の話型は誕生し、語り継がれてきたのである。

 リドリー・スコットが伝承的な話型を意識的に採用したのか、それとも「恐ろしいエピソード」を求めているうちに、無意識的に古典的な恐怖譚に回帰してしまったのか私たちには判定できない。しかしすぐれたストーリー・テラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。

 その時代の観客が見たがっているもの(しかし抑圧されているもの)を感知するために必要なのは、無意識的な共感能力である。スコットがここで映像的に同調しようと試み、そしてそれに成功したのは1970年代末におけるアメリカ社会の、性関係にかかわる集合的無意識である。