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「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第5回) ☆ あさもりのりひこ No.469

映画の冒頭でリプリーは「シラミが多いから」という不自然な理由で髪の毛を刈られて丸坊主にされる。ストーリー上の必然性がないのに、女優がヌードになる映画は数多いが、ストーリー上の必然性がないのに美人女優がスキンヘッドになる映画はたぶんこれが最初だろう。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第5回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

5《憎悪の映像》

 法規範と言語に象徴される父権制社会の秩序を脅かす「おぞましきもの」としてジュリア・クリステヴァは「女性的なもの」を定義した。

 「われわれが《女性的なもの》という言葉によって指示するのは、生来の本質といったものではなく、名をもたぬ《他者》である」。それは「三角形を形成する父による禁止の機能を突き抜けた果ての、命名しえない一個の他者性」である(7)。

 命名しえぬもの、象徴界に穿たれた根源的喪失、コーラ、ル・セミオティック、「文化という象徴的な構造に対する、言葉で表現できない絶大な自然の力」……ラカン的なジャルゴンで飾られたクリステヴァの「女性性」論は、第三世界論やマイノリティ論とシンクロナイズするかたちで七〇-九〇年代のフェミニズムに鋭利な理論的武器を提供してきた。しかし、この理論はややもすると通俗的な「母性」主義に再利用されかねない危険をはらんでいる。

 もしクリステヴァが言うように、母性がそれほどに父権制秩序を紊乱する潜在的な力を秘めているのであれば、父権制社会の転覆のためには、キャリア・ウーマンとなって男性に伍してばりばり働くより、家で子供との間に濃厚な情念的関係をはぐくんでいる方が有効であることになってしまうからである。

 そのような母性主導的環境に育った男の子たちがうち揃って「セリーヌ=アルトー」的な人格形成(崩壊?)を遂げたら、なるほど父権制社会はがらがらと崩壊するだろう。しかしそれは父権制社会の崩壊というより、「市民社会そのもの」の崩壊を意味するのではあるまいか?市民社会そのものが消滅することによって、女性たちはどんな利益を得ることができるのだろう?

 市民社会の消滅は望まないが、母性的なものの復権は望むということだとすると、それは要するに「父権制社会のサブシステムとして母性的なものを認知して欲しい」ということにすぎないのではないのか?母性的なものはただ「父権制」と葛藤することによってはじめて生成的なものとして機能するというのなら、母性的なものは、結局、「パートナー」としての父権制の永続を願うようにはならないのだろうか? 

 これがフェミニズム本質主義に対する、ラディカルな反問のかたちである。

モダン的な父権制イデオロギーを一蹴したあとのアメリカ・フェミニズムの次なる闘いは「実体化された女性性」という差異派フェミニズム思想の掃討戦であった。

 「多産な母」「自然な母」「地母神」的女性性、「アップル・パイと日向のにおいのするママ」の神話が一掃されなければならない。

 ロバートによれば、クリステヴァ的な母性(「象徴秩序の外に位置して」おり、「前言語的段階を表象する」母)は『エイリアン2』では「女王エイリアン」によって演じられている。リプリーはそれを殺すことによって近代的な意味での「女性性」の息の根を止めたことになる。

 「生殖」という行為に集約的に象徴される生物学的女性性に対するこの明確な否定が、八十年代中期以降のフェミニズムの新しい思潮を反映している。

 「女性を束縛しているのは、まさに彼女たちの〈女性性〉である(……)。だいたい、女性〈である〉などという状態じたいが、ほんらい存在してはいないのだ。それは性科学的言説や社会活動における論争史によって構築された複合カテゴリーにすぎない」(8)。

 〈サイボーグ・フェミニスト〉ダナ・ハラウェイは一九八五年にそう書いた。

 「サイボーグとは、解体と再構築をくりかえすポスト・モダンな集合的・個人的主体(セルフ)のかたちだ。これこそフェミニストたちがコード化しなければならない主体のありかたなのである」(9)。

 女性性を実体めかして語るというみぶりそのものが、父権制のサブシステムとして機能している以上、女性性、アブジェクシオン、ガイネーシス、といった神話的コンセプトを支えにしては父権制は打倒できない。そう自覚する新しいフェミニズム的知見が80年代にこうして登場してきた。映画はそのような社会的感受性のシフトを直観的にとらえている。

 だが「女らしさ」という社会的役割の拒否にとどまらず、「生殖」に象徴される生物学的女性性の拒否にまで踏み込んだ新しいフェミニズムの思潮に、当然のことながらアメリカ男性は深刻な危機感を抱いた。男たちはあらゆる種類の「女らしさ」を「歴史のゴミ箱」にこともなげに放り投げてゆく女たちに対して強い不安と恐怖を感じた。このような男性側の根深い不安とそこから分泌される強烈な悪意を映像的に表象してみせたのが『エイリアン3』である。

 一九九二年のこの第三作は前二作に比べると、あまりに暗く、あまりに希望がない。それは全編にみなぎる「女性嫌悪」(misogyny)の瘴気のためである。

 この映画で女性嫌悪はむろんフェミニストからすぐに指弾されるようなあからさまな仕方では表現されていない。それは隠微な仕方で、フェミニズムを「懐柔」し、それに「迎合」するような話型を通じて表現されている。

 それどころか、ある意味で『エイリアン3』は「フェミニストの理想を描いた映画」であるとさえ言えるかも知れない。なぜなら、そこには伝統的な意味での女性はもう存在しないからだ。この世界の女性はこれまで女性に帰属させられてきたすべての特性を脱ぎ捨て、剥ぎ取られている。「女性であるなどという状態じたいが、存在してはいない」世界、「女性が女性であることを止めた世界」をこの映画は描いているのである。ただし、「悪夢」として。

 映画はようやく脱出に成功した宇宙船が、潜んでいたエイリアンのために《会社》の所有地である囚人星に墜落するところから始まる。墜落で「娘」ニュートも海兵隊最後の生き残りヒックス伍長もアンドロイドのビショップも死ぬ。リプリー自身は冬眠中にエイリアンの卵を産み付けられた身体で一人生き延びてしまう。そして、二五人の性的凶悪犯と二人の看守だけが住む「男だけの星」でリプリーは三度エイリアンと闘うことになる。

 この映画でのリプリーは絶望的なまでに孤立している。彼女にはもはや何もない。守るべき娘はいない。前作における戦友であったヒックスは死に、ビショップは破壊された。宇宙船には近代的な装備があり、エイリアンを吹き飛ばす武器も望めば手に入ったが、この囚人星には斧より他には武器もない。これまでは冷静な判断力や果敢な行動力を備えた男女のサポーターがいたが、囚人星にいるのは性的な重罪犯と無能な看守だけである。

 これまであれほど懸命に闘ってきた女性が迎えるにしてはあまりに過酷な条件だ。しかしこの映画で冷遇されているのはリプリーの戦闘条件だけではない。これまでリプリーが体現してきた「女性性」のすべての指標もまた、この星では猛然たる攻撃にさらされることになる。

 映画は「女性性なるものはあってはならない」というメッセージを繰り返す。

 星に漂着したリプリーに対して所長は「この星は女性的なものが存在してはならない場所である」と告げる。この囚人星に収容されているのは「常習的・遺伝的な性犯罪者たち」である。「生まれついての性的暴力の愛好者たち」だけから構成される社会(これこそ父権制社会そのものだ)を自由に歩き回る女は暴力と災厄をもたらすだろう。じじつ彼女の出現は鎮静していた性幻想を解発し(リプリーは到着後ただちにレイプの洗礼を受ける)、彼女が「連れてきた」エイリアンは男たちをむさぼり喰う。女性の到来が「男たちだけの世界」に災厄をもたらしたのだ。

 映画の冒頭でリプリーは「シラミが多いから」という不自然な理由で髪の毛を刈られて丸坊主にされる。ストーリー上の必然性がないのに、女優がヌードになる映画は数多いが、ストーリー上の必然性がないのに美人女優がスキンヘッドになる映画はたぶんこれが最初だろう。

 女性の造形的な美しさに過剰な価値を賦与するのは父権制社会の特徴である。

 「女は美しくあらねばならない」という威嚇的な要請は、女性を性的対象として眺めている暴力的な視線に裏づけられているとフェミニズム批評は主張してきた。それを拒むこと、わざと自分の生得的な造形的美貌を毀損することは、論理的に言えば、性的対象として賞味され玩弄することを拒絶することである。

 「醜い主演女優」はその意味で画期的だ。女性の造形的な美、鑑賞用の美貌という抑圧的慣習に異議が申し立てられたのだ。もう女性が性的フェティッシュとして男たちのまなざしに捉えられることはない。

 丸刈りの頭、充血した眼、ぼろぼろの囚人服のリプリーは病的な性的犯罪者たちにとってさえ、もうあまり魅力的ではない。それは映画の観客にとっても同じことだ。私たちは彼女が画面に現れない時間をさしたる欠落感なしにやり過ごすことができる。

 映画の開巻に設定されたこの「ストーリー上必然性のない」断髪が暗示するように、この映画の中でヒロインは繰り返し制裁を受ける。髪を切るというのは女性の造形的な美しさに対する暴行である。フランスで対独協力者の女性が戦後髪を刈られた事実が示すように、女性の髪を刈るのは一種処罰的な含意を持っている。父権制社会の強要する「女らしさ」という抑圧的コードを一蹴した女は「失われたコード」の名において処罰されるのである。

 第三作でリプリーはシリーズではじめてセックスをする。

 リプリーは囚人星ただ一人の知識人である医師を相手に選ぶ。ただしこの性行為は、相手の疑念を封じ、相手から必要な情報を引き出すための一種のマヌーヴァーとして行われる。(かつてジェームス・ボンドが敵役の女性を篭絡し、情報を引き出すため性行為を活用したのと同じように。)

 最初に誘うのはリプリーである。彼女は性行為の主導権を握っており、自分の欲望をコントロールしている。相手の医者は性行為を通じてリプリーに対してなんらかの支配力を手に入れるどころか、行為のあとすぐにエイリアンに喰われ、現れたときと同じようにあわただしく消えてしまう。「セックスがすんだら相手が痕跡も残さずに消滅してくれる」のが性行為の主導者にとって一種の理想であるとすれば、これは女性が久しく夢見てきた理想のセックスに他ならない。

 「女らしさ」を拒絶した代償に、ヒロインは「理想の性生活」を手に入れる。情感も物語性も親密さも愉悦もない物理的な「セックス」。

 リプリーはこの映画で「妊娠」する。彼女があれほど憎んできたエイリアンの幼体を身体に寄生させてしまうのである。《会社》の手に体内のエイリアンを渡さないためにリプリーはみずから溶鉱炉に飛び込む。映画は墜落して行くリプリーの腹を喰い破って蛇状のエイリアンの幼体が飛び出し、呱々の声とも断末魔の悲鳴ともつかぬ叫びをあげるところで終わる。

 すでに検証したとおり、「体内の蛇」という『エイリアン』全編をつらぬく話型は「男性のエゴイスティックな自己複製欲望」に屈服することへの嫌悪と恐怖を伝えている。その屈折した感情がエイリアンとの闘争、あるいはエイリアンの卵の焼却といった物語的な迂回をたどって表現されてきたことは述べてきたとおりである。しかし『エイリアン3』において、妊娠と出産はもはや「物語的迂回」を経由することなしに、これ以上はないほどあからさまに「女性に対する性的攻撃とその拒否」として映像化される。

 リプリーは冬眠中に「不注意」から体内にエイリアンの卵を注入されてしまい「妊娠」する。彼女に「自己複製」を託したエイリアンは種族的配慮から彼女には攻撃を加えず生かしておく。しかしリプリーはエイリアンが自分を殺さないことを逆用して、エイリアンを焼き殺し、エイリアンの「子供」を誕生前に殺害する。

 リプリーを「妊娠」させたエイリアンとは要するに彼女の「夫」である。

 『エイリアン3』において種明かしされたのは、エイリアンとは女性を妊娠させ、自己複製を作らせようとする男性の欲望の形象化に他ならないという事実である。リプリーとエイリアンとの闘いは要するに「妊娠したくない女性と妊娠させようとするファルスの闘い」だったのである。

 考えてみれば、男性の本質を暴力的な侵入と見なすのはフェミニズムに基幹的な主張の一つであった。

「男性性のセクシュアリティの概念とは、女性性にとって暴力の介入と同義なのだ」(10)。

 『エイリアン3』はその主張をみごとに裏づけている。ただしフェミニストのテクストが事実認知的であるのに対して、映画のメッセージはむしろ行為遂行的である。この映画は男性性は本質的に暴力的であると「認知」しているのではなく、そう「宣言」しているのである。『エイリアン3』は「ファルスと闘う女性」の末路についての悪意にみちた予言である。

 

 自立を求める女性、男の子供をはらむことを拒絶する女性は、徹底的にファルス的な暴力にさらされ、子供を失い、友人を失い、美貌を失い、性生活を失い、夫を殺し、子供を殺し、自分も死ぬことになるだろう。この映画はそう予言している。ファルスと闘う女性はすべてを失うだろう。これがこの映画の発信するあからさまなメッセージである。そして、この映画の作り手たちは自分たちがそのようなメッセージを発信していることをおそらく自覚しておらず、それがアメリカの男性観客の「悪夢」を映像化してみせたのだということにも、おそらく気づいていない。