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「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第11回) ☆ あさもりのりひこ No.477

「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すのではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。

 

 

2017年10月1日の内田樹さんのテクスト「奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り」(第11回)を紹介する。

どおぞ。

 

 

 リプリーの腕には「8」という入れ墨が入っている。その意味はやがて明らかにされる。リプリーは船内探索の途中、ある実験室の中に「リプリー一号」から「リプリー七号」までの「標本」(七号はまだ生きているが、あとはホルマリン漬け)が陳列してあるのを発見する。クローンの「失敗作」であるこの七体はリプリーとエイリアンの「雑種」の考え得る限りもっともおぞましい姿のカタログである。リプリー八号は「殺して」と訴えるリプリー七号の求めに応えて、すべての「姉妹たち」を涙ながらに火炎放射器で焼き殺す。

 リプリー8号は造形的には人間であり、能力と感性に「エイリアンが入っている」という設定であるので、ヴィジュアルな水準では(やたらに力が強いのと、血が強酸性であることを除くと)前景化しない。しかし「ニューボーン」と七人の姉妹たちは、造型的にも異種混合である。ハイブリッドの本質はこのとき映像のレヴェルできわめて効果的に語られる。

 もしシガニー・ウィーヴァーが言うように、半ば人間であり、半ばエイリアンであるような存在となったリプリーが主人公を演じるべきなら、リプリー七号(女性とエイリアンがぐちゃぐちゃまじっている)にもこの映画の主人公になる権利はあったはずである。しかし、七号にはそのチャンスが与えられなかった。なぜか。理由は簡単である。

 気持ちが悪いからだ。七号は「エイリアンそのもの」よりも遙かに醜悪であり奇怪な「怪物」である。少なくとも観客にはそう感じられる。

 「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すのではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。

 キマイラ、スフィンクス、グリフォン、「ぬえ」といった伝説的な怪物は、さまざまな動物のパーツからなる一種のコラージュである。フランケンシュタインの怪物は人間と非人間の境界におり、狼男は自然と文明の境界におり、屍鬼や吸血鬼や死霊たちは「幽明の境」に蟠踞する。見世物小屋をにぎわすフリークスたち(蛇女、たこ娘、半魚人、髭娘)はそれぞれ二つの種の混淆体である。人間の想像力が生み出した怪物たちはすべて「カテゴリーの境界線を守らぬものたち」である。

 なぜ境界線を行き来するものは私たちを恐怖させるのか?

 その理由をレヴィ=ストロースは簡潔にこう述べている。「いかなるものであれ分類はカオスにまさる。」(14)

 古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。それは「野生の思考」からコンピュータにおける「ビット」の概念まで変わらない。「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考のパターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのようにして生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。

 そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリッドに嫌悪と恐怖を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。

 私たちはハイブリッドを「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBであるもの」を人間の文明は許容しない。

 「そのような分節は人間が勝手に作り出した擬制にすぎない」という異議は正しい。しかし、「人間が勝手に作り出さなかったら誰が文明を作るのだ」という反論も同じように正しいと私たちは思う。「文明」とは要するに境界線なるものを仮構して、連続性を二項対立に読み替える詐術に他ならないのである。

 リプリー七号までの姉妹たちは「文明化」に失敗し、八号がはじめてそれに成功した。彼女は精神的内面においてエイリアンであり、肉体的外面において人間である。境界線は「エイリアン的内面」と「人間的外面」の間に仮構されている。二つの血統を「内面」と「外面」に詐術的に分離することによって、リプリー八号は文明化をなしとげた。それゆえ私たちは彼女を「怪物」ではなく「人間」として認知するのである。

 物語の水準では、リプリーとコールは、エイリアンと人間と機械の境界線を無化したはずでだった。しかし、リプリーはエイリアン要素を、コールは機械要素を「内面」に閉じ込めている。異族との境界線は「内面」と「外面」という垂直的な境界線に置き換えられることで延命を果たしたのである。

 エイリアン/人間/機械の種族境界線は「バター」になって消滅したはずであった。たしかにプロットのレヴェルでは、デジタル・ボーダーは完膚無きまでに破壊された。しかし、映像の表層では、カオスを防ぎ止める境界線はあらわに前景化している。破壊されたはずのボーダーは、美術スタッフの力作である「ニューボーン」と「姉妹たち」の造形的な醜さと、シガニー・ウィーヴァーとウィノナ・ライダーの造形的な美しさがもたらす視覚効果として強固に再構築されたのである。

 アモルファスな世界にデジタルな境界線を引くものだけが生き残る。

 このメッセージは、ここでもまた「怪物」を気持ち悪いと感じ、二人の女優の「美貌」にみとれる「ぼんやりした」観客たちだけに伝達されたのである。

 高橋源一郎は政治と文学の関係について次のように書いている。

「『政治』は『文学』と対峙する時、必ず敗れる。なぜなら、『文学』は『政治』より『深く』『広い』からだ。(…)『政治』の本質が『わたしは正しい、やつは間違っている』なら、『わたしは正しい』と訴える『文学』はすでに『政治』に冒されているのである。そして『わたしは正しい』と主張する『文学』は『政治』であるが故に、ついにこの世界の基底とは成り得ないのだ。

 では、世界の基底に成り得る、世界を成り立たせることのできる『文学』とは何なのか。」(15)

 高橋はこの「最後の問い」を書きとめたところで筆を擱いている。私たちはこの文章の中の「文学」を「映画」に置き換えて読んでみた。そして高橋と同じ「最後の問い」の前にたたずんでいる。

 

 「コレクトネス」を求める人々が映画をいくら統御しようと試みても、その勝負は必ず映画の勝利に終わるだろう。映画が二〇世紀の生み出したあらゆる物語装置の中でもっとも成功したことの秘密はたぶんそこにある。映画はつねに時代の権威に屈服し、支配的なイデオロギーに迎合し、なりふりかまわず流行を追ってきた。その職業的な変節ぶりは、現政権と反政府ゲリラ組織に同時に献金して「保険」をかけている資本家によく似ている。まさしく「面従腹背」こそは映画の本性である。映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。