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言葉の生成について(第5回) ☆ あさもりのりひこ No.527

武道の修業には目に見える目標というものはないのです。

 

 

2018年3月28日の内田樹さんの論考「言葉の生成について(第5回)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

言葉の生成と、武道の稽古が深いところで繋がっているということにも最近気がつきました。同じ人間が35年にわたって昼はレヴィナス、夜は合気道という生活をしていたわけだから、その二つは深いところでは繋がっているに決まってるんです。でも、それがどういうふうに繋がっているのかをなかなかうまく言葉にすることができなかった。でも、自分で道場を持って、門人を教えるようになって分かってきました。

武道の修業には目に見える目標というものはないのです。100mをあと1秒速く走るとか、上腕二頭筋をあと1㎝太くするとか、数値的に計量化できる目標は武道には存在しません。今やってるこの稽古が何のためのものなのか、稽古している当人はよくわからない。わからないままにやっている。自分がしてきた稽古の意味は事後的にしかわからない。というのも、修業の成果というのはもっぱら「自分の身体にそんな部位があるとは知らなかった部位を感知できるようになる」「自分の身体がそんなふうに動くとは知らなかった動かし方ができるようになる」というかたちで現れるからです。自分の身体にそれまで身体部位として分節されたことのなかった部位や働きが立ち現れる。記号的に分節されていなかったものが記号として立ち上がる。ですから、稽古を始める前に、ある能力の向上やある部位の強化について数値的な目標を掲げることはできません。目標とすべき「能力」や「部位」それ自体がその段階では認識できていないからです。感知できるようになってから、そこに感知されるような何かがあったことがわかる。動かせるようになってから、そこに操作可能な何かがあったことがわかる。自分が何を習得したのかを知るのはつねに事後においてなのです。修業が進んで、技術に熟練してはじめて、自分が何を稽古しているのかが言えるようになる。身体が先で、言葉が後なんです。

自分の中に湧いてきた体感的な気づきを言葉にして、具体的なプログラムに組み替えて、それを門人たちに教えるということを自分の道場を持ってから26年間繰り返してきました。これもまた自分の中にある、アモルファスな、星雲状の身体感覚です。レヴィナスの時はアイデアでしたが、合気道の場合は身体的な気づきです。前言語的な「感じ」をなんとかして言葉にしていく。そして、その言葉に基づいて門人たちに実際に動いてみてもらって、その言葉が適切だったのかどうかを判断する。表現が適切であれば、みんなの動きが一変する。不適切であれば、みんなまごついたり、あるいは僕がイメージしていたものとは別の動きが現れてくる。そうやって僕の使った言語記号の適否はすぐに判定できる。

こういう経験をしてきて、いくつか気がついたことがあります。

一つは、具体的に身体部位を指示して、腕をこう動かしなさいとか、足をここに置きなさいというように、具体的に指示することは武道的な動きの習得の上では、ほとんど効果がないということです。人間はある部位を意識的に動かそうとすると、それ以外のすべての部位を止めようとする。手首を「こういうふうに」動かしてというような指示をすると、手首以外のすべての部位を硬直させて、手首だけを指示通りに動かそうとする。でも、実際に人間はそんなふうに身体を使いません。重心の移動も、腰の回転も、内臓も含めて全部位を同時に動かすことによって一つの動作を行っている。でも、具体的に「手首をこういうふうに」という指示を出すと、それ以外の随伴するべき動作を止めて、手首の動きに居着いてしまう。

だから、具体的な指示はしない方がいい。では、なにが有効かというと、文学的表現なんです。経験的には、詩的なメタファーが最も有効です。「そこにないもの」を想起させて身体を動かしてもらうと、実に身体をうまく使う。現にそこにある自分の身体を操作しようとするとぎくしゃくするけれど、そこにないものを操作する「ふり」をさせると、実に滑らかに動く。

最初にポエジーが効果的だと気づいたのは、もう10数年前になります。その時は、手をまっすぐに伸ばすという動作がなかなかみんなできなかった。そこで、ふと思いついて、こんな情景を想像してもらいました。「曇り空から今年はじめての雪が降ってきた。軒の下からそっと手を差し出して、手のひらに初雪を受ける」そういうつもりやってみてくださいと言ったら、みごとな動きをしてくれた。今思っても、いい比喩だったと思います。手のひらにわずかな雪片の入力があって、それが感知できるためには、手のひらを敏感にしておかないといけない。そのためには腕の筋肉に力みがあってはならない。わずかな感覚入力に反応できるためには、身体全体を「やじろべえ」のようにゆらゆらと微細なバランスをとっている状態に保っていなければならない。身体のどこかに力みがあったり、緩みがあったりすると、バランスは保てません。だから、全身の筋肉のテンションが等しい状態になっている。そういう状態を自分の骨格や運動筋だけを操作して実現することはほとんど不可能ですけれど、「初雪を手のひらに受ける」という情景を設定するだけで、誰にでもできてしまう。そこにある骨格や運動筋を操作するよりも、「そこにないもの」を思い描く方が複雑で精妙な身体操作ができるということをその時に実感しました。