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あらゆる制度は人間が共同的に生きることを支援するために存在する。私はそう考えている。それ以外の説明を思いつかない。
もちろん司法制度もそうである。
その制度をどう運用すれば、人間たちが共同的に生き延びてゆくために有効か。
それを思量するためには、ことの理非をためらいなく、截然と決するタイプの知性よりもむしろ理非の決断に思い迷う、「計量的な知性」、「ためらう知性」が必要である。
2018年7月8日の内田樹さんの論考「死刑について(前編)」をご紹介する。
どおぞ。
オウム真理教の死刑囚たち7人が死刑執行された。
解説記事を読むと、改元や五輪の日程に合わせて「このタイミングしかない」ということで執行されたと書いてあった。
死刑については、いくつものレベルの問題があり、軽々に適否を論じることはできない。
「国家が人を殺す死刑という制度そのものの存否」にかかわる原理的な問いがあり、「死刑は犯罪の予防に有効なのか」という統計的な問いがあり、「被害者遺族の怒りや悲しみはどうすれば癒されるのか」という感情の問題があり、それらが入り組んでいる。
死刑の存否について、「どちらか」に与して、断定的に語る人を私はどうしても信用することができない。
死刑は人類の歴史が始まってからずっと人間に取り憑いている「難問」だからである。
世の中には、答えを出して「一件落着」するよりも、「これは答えることの難しい問いである」とアンダーラインを引いて、ペンディングにしておくことの方が人間社会にとって益することの多いことがある。同意してくれる人が少ないが、「答えを求めていつまでも居心地の悪い思いをしている」方が、「答えを得てすっきりする」よりも、知性的にも、感情的にも生産的であるような問いが存在するのである。
そういう問いは「喉に刺さった小骨」のように、刺さったままにしておく。そうしているうちに、いつのまにか「小骨」は溶けて、喉を含む身体そのものの滋養となる(ことがある)。
あらゆる制度は人間が共同的に生きることを支援するために存在する。私はそう考えている。それ以外の説明を思いつかない。
もちろん司法制度もそうである。
その制度をどう運用すれば、人間たちが共同的に生き延びてゆくために有効か。
それを思量するためには、ことの理非をためらいなく、截然と決するタイプの知性よりもむしろ理非の決断に思い迷う、「計量的な知性」、「ためらう知性」が必要である。
「計量的知性」ということばを私が知ったのはアルベール・カミュの書き物からである。
どうふるまうべきか決定し難い難問を前にしたときは、そのつど、ゼロから根源的に吟味する知的な態度のことを指してカミュはこのことばを選んだ。「この種のことについては、これまでずっとこう対応してきたから、今回もそれを適用する。細部の異同については考慮しない」という原理主義的な態度に対抗するものとして、このことばを選んだのだ。
原則に揺るぎがないのは、経験的には「善いこと」である。そうでなければ日常生活は営めない。あらゆる問題について、いちいち細部の異同を言い立てて、そのつど判断を変える人とはいっしょに仕事をすることはできない。「予測」ができないからである。人間は「あの人はこれまでこういう時にはこうしてきたから、今度もこうするだろう」という他者からの「期待の地平」の中で行動するものである。そうしないと共同作業はできない。とりあえず私は社会生活上、できるだけ「期待の地平」の内側で行動するようにしている。
けれども、死刑はふだん私たちがしている「仕事」とは水準の違うことである。もっと「重たい」ことである。だから、人を死刑にすべきかどうかの判断には、人間関係のもつれやビジネス上のトラブルを解決する時のような効率や速度を求めるべきではない。
カミュにとって、死刑は久しく「死刑に処せられる側」から見た制度であった。
アルジェリアの経験豊かな法廷記者であった時代、カミュは「死刑宣告を受ける側」の立場から死刑という制度を観察してきた。
『異邦人』はその時の実体験を踏まえた「死刑小説」である(実際の事件に取材している)。
人は「こんなことをしたら死刑になるかもしれない」という予測をしながらも罪を犯すことがある、なぜそんなことをするのか。裁判官は殺人者をあるときは死刑に処し、あるときは有期刑で済ませるが、その量刑の根拠は何なのか。死刑を宣告された人間はそれにどう対応すべきなのか、不当だと告発すべきなのか、「それが正義だ」と受け入れるべきなのか。
無数の問いが『異邦人』を構成している。