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日本会議や神道政治連盟がめざしているのは天皇制の空洞化です。「恐れ多くも畏きあたりにおかれては」という文句を恫喝の道具として使って、反対者を黙らせようとしている。
2018年7月22日の内田樹さんの論考「「天皇主義者」宣言について聞く-統治のための擬制と犠牲」(第2回)をご紹介する。
どおぞ。
2.象徴としての天皇はどうあるべきか
――次に内田さんが象徴天皇の役割を死者の「鎮魂」と「慰藉」に見ていることについて、もう少し伺いたいと思います。昭和天皇の戦争責任を考えれば、同じ「天皇」である平成天皇に戦争で犠牲となった人々の「鎮魂」や「慰藉」などしてもらいたくない、と感じる人もいるのではないかと思いますが、そのあたりはいかがでしょうか。
内田 そうですね、そういう感じ方をする人も当然いると思います。どんなシステムも政策も国民全員が賛同するということはあり得ませんから。一〇〇パーセントの国民的合意は求めるべきではありません。すべての統治システムはどこかに欠点を抱えている。だから、そこそこ機能すれば合格点だと思っています。
天皇制についても、立憲デモクラシーについても「そういうのはいやだ」という考え方をする人たちがいる。いて当然です。全国民が同じ政治的意識を持ち、同じ統治形態を支持するようなことはもとより期待できないし、期待すべきでもない。そもそも、全国民が賛同しなければ機能しないような統治システムなら、それは制度設計そのものが間違っているということです。大方の人が「同じくらいに不満足」であるシステムが実現できたら、それで上出来だと思います。
――現時点ではそのツールとして天皇制が一番ふさわしいということですか。
内田 一番ふさわしいも何も、「手持ち」のリソースしか僕たちは使えない。天皇制以外の仕組みをどこかから取り寄せて、アッセンブリーごと取り替えることが可能なら、「どういうシステムがいいだろう」という議論もありうるでしょうけれど、天皇制は日本の統治機構にすでにビルトインされていて、取り外し不可能なわけです。取り外し不可能である以上、どうすればそれが最高のパフォーマンスを発揮するのかを考えるしかない。
――天皇の「鎮魂」に関しては、もうひとつ懸念があります。「鎮魂」をするということは一人一人の死の意味付けをしていくことだと思いますが、それは国家の一部としての天皇がすべきことではないと思うんです。鎮魂というより、戦争で命を奪われた人々に対する謝罪をすべきなのではないかと。
内田 陛下は戦争で死んだすべての人の鎮魂をされていると思います。2年前にフィリピン訪問の時の「おことば」では、「先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」とまずフィリピンの犠牲者たちへの弔意を示された。陛下は日本国民だけでなく、戦争によって傷ついたすべての人の魂の平安を祈るということを意識的にされていると思います。
だから、今の安倍政権は本音では、陛下が東アジアのかつての戦地を訪れて、現地の被害者にお詫びをするようなことはしてもらいたくないんじゃないですか。彼らがしようとしているのは実質的には象徴天皇制の空洞化です。天皇を単なる記号にしたいと思っている。日本会議や神道政治連盟がめざしているのは天皇制の空洞化です。「恐れ多くも畏きあたりにおかれては」という文句を恫喝の道具として使って、反対者を黙らせようとしている。
――そこに危機感を覚えておられるわけですね。ただ、原則的に象徴天皇は単なる記号であるべきという考え方もありますね。
内田 いや、もし天皇が単なる記号であったら、むしろ政治家たちはあらゆる手立てを駆使して「天皇という記号」を私的な目的達成のために利用しようとするはずです。それは維新のときに天皇を「玉」と呼んだ官軍や、二・二六事件の青年将校たちの天皇批判や、終戦時の宮城事件の「國體護持派」の思想からも知られます。あのような「暴走」事例を知っている以上、天皇が自分の個人的な所感を発言する機会は絶対に担保されるべきだと僕は思います。天皇が生身の人間であり、傷つく心と身体を持っているという事実がむしろ政治的暴走を抑制できる。僕はそう思います。
――しかしそうすると、天皇制がどう機能するかがその時々の天皇の人間性に左右されてしまいませんか。
内田 そうです。でも、天皇の属人的な要素が強く働く方が、天皇が内閣が振り付けたこと以外何もしない、何もできない記号的な存在であるより、政治的混乱を招くリスクが少ないと僕は考えています。
繰り返し言うように、天皇制は一つのリアルな政治的装置です。うまくゆかない点が出てきたら、どうすればいいか国民的に議論して、そのつど適切な対応を取ればいい。完全なものを作って、後は手を触れないということではなくて、そのつどの現実的問題に合わせて調整してゆけばいい。どんな政治的制度ももとは人間が考え出したものです。それをどう工夫して、良い結果を出すか、それだけが重要なのです。どれほど見事な制度を設計してみても、実際に使うのは人間です。制度を働かせるためには人間の弱さや愚かさや頑なさを勘定に入れなければならない。どんな合理的な制度でも、人間がそれを受け入れてくれないと機能しないからです。その意味では、すべての制度は半分生き物、半分機械の「バイオメカノイド」のようなものです。どれほど合理的なアイディアでも「受肉」しなければ空論に終わる。逆に、どれほど非合理的、空想的な理念でも、人間がそこに生気を吹き込めば働く。