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国際社会において重きをなしたいと思ったら、指南力のあるメッセージを発信し、あるいは広々としたヴィジョンを提示することより、端的に軍事的に強いことが最優先するのだと日本人は信じた。
2018年8月11日の内田樹さんの論考「『知日』明治維新特集のアンケートへの回答(前編)」をご紹介する。
どおぞ。
中国で出ている『知日』という日本についての専門誌がある。なかなかよく売れているらしい。
次の号が「明治維新特集」ということで、私のところに次のようなアンケートが来た。
日本近代史の専門家に聞けばいいと思うような質問だけれど、せっかくなので知る限りのことをお答えした。
素人考えなので、専門家から見て「それはあきらかに間違い」という点があれば、ご叱正を請う。
1.黒船来航は明治維新の始まりと見られています。どうしてアメリカは黒船4隻だけで、鎖国200年以上の日本の国門を簡単に開けたのか?中国人は国門を開くアヘン戦争に対する屈辱と違って、日本人は黒船来航に対する感情は積極的な方が多いと感じられます。それについての記念活動も多い、それはなぜでしょうか?
最初にお断りしておきますけれど、私は近代史の専門家ではありませんし、明治維新に特に詳しいわけでもありません。私がこれから答えるのは、あくまで非専門家の個人的な見解であって、学会の常識でも、日本人の多数の意見でもないことをご承知おきください。
アメリカの黒船四隻「だけ」と質問にはありますけれど、二隻の蒸気船だけでペリー提督たちは彼我の軍事力と科学技術の圧倒的な差を見せつけました。このとき沿岸防衛に召集された武士たちの中には戦国時代の甲冑や槍で武装したものもいたくらいですから。アヘン戦争の情報はすでに日本に伝わっていましたので、アメリカの開国要求を丸のみする以外に選択肢はないということについては、幕府内では覚悟はできていたと思います。
清朝の中国と徳川幕府の日本、いずれも公式には海禁、鎖国政策を採用して、一般の人々が海外の情報に接触することは禁じられていましたけれど、実際にはかなり大量に海外の書物が流入しておりました。ですから、この時点で日本の近代化が致命的に遅れていることについてはすでに指導層と知識層には知られていたはずです。
幕閣たちに決断力がなく、無能であることについては幕府内外においてすでに不満が募っておりましたから、ここで将軍や幕閣を押したてて、国民一丸となってアメリカと一戦交えるというような気分は醸成されようがなかったのではないかと思います。
また当時の日本は原則として自給自足している300の国(藩)に分かれており、藩を超えた政治単位としての「国民国家日本」というような概念はまだリアリティーを持っておりませんでした。
日本人が黒船来航をそれほど屈辱的に感じなかったように見えるのは、外交が徳川幕府の専管事項であって、それ以外の300諸侯やその家臣団には、さしあたり「自分の問題」だとは思われていなかったということがあったからだと思います。
むしろ、黒船来航で彼我の科学技術の差が可視化されたことを好機として、いくつかの藩では近代化をめざす派閥が勢力を増し、技術開発や兵制の刷新に向かいました。彼らは黒船来航を日本の近代化の契機として肯定的に捉えたはずです。
けれども、黒船来航を肯定的にとらえる最大の理由は現代日本人の対米意識だと思います。
日本は「黒船」によって文明開化に向かい、「GHQの日本占領」によって民主化に向かった。アメリカによる二度の「外圧」が日本にもたらしたものは総じて「善きもの」であったというのは、対米従属体制で生きることになった戦後日本人にとっては受け入れざるを得ない「総括」でした。
隣国中国から見て、「どうして砲艦外交を肯定的に評価するのか?」と疑問に思われるのは当然ですけれど、それは現代日本人の「対米意識」が歴史の評価に投影されているからだというのが私の解釈です。
2.日米和親条約は近代日本の初めての不平等条約と呼ばれています。「片務的最恵国待遇」の内容に「関税自主権」と「領事裁判権」のないのは日本の後の発展を妨げていました。イギリス・フランス・オランダ・ロシアもアメリカと同じ日本と不平等条約を結びました。日本はどのような努力をして、「関税自主権」と「領事裁判権」を取り戻しましたか?
不平等条約が締結されたのは、開国時点では、日本が貿易についての国際ルールを理解しておらず、西欧的な意味での法による統治が行われていなかったからです。日本の後進性を徳川幕府自身が認めていたのです。
不平等条約はそれ以後、貿易や外交で日本にさまざまな不利益をもたらしたわけですけれど、具体的な不利益以上に「日本は後進国である」ということを日本人が自らが認めたことがトラウマ的経験となりました。
ですから、日本の場合、不平等条約改定の運動は「欧米列強に押し付けられたアンフェアな条約を平等な条約に改定したい」という公平性の要求というよりはむしろ「欧米列強から先進国として認定されたい」という承認願望に駆動されたものでした。
明治政府は中国や朝鮮を相手には、自分たちが欧米に押し付けられたのと同じ不平等条約を押し付けました(日朝修好条規、下関条約)。不平等条約そのものが「アンフェア」であると考えていたら、そのような条約を中国や朝鮮に押し付けるわけがありません。中国朝鮮を相手に締結した不平等条約は、それによって日本の国益を増大するという実利以上に、欧米列強に対して「日本は後進国に対しては不平等条約を強要することができるような近代的帝国主義国家になった」というみずからの「近代性」をアピールするためのものだったと思います。
それゆえ、明治政府による不平等条約の改定のための努力は、相手国を説得するとか、国際世論に訴えるとかいうことではなく、シンプルに「日本を近代的な帝国主義国家にする」という方向に集中されることになりました。
日本が不平等条約の改定に成功したのは1902年に日英同盟を締結したことが大きく与っています。同盟を結んだということは、英国から「イーブンパートナーとして承認された」ということですから、これは日本の悲願が達成されたということです。
その日英同盟締結の直接のきっかけは義和団事件(1900年)でした。義和団蜂起に際して、欧米諸国の外交官たちや中国人キリスト教徒が北京に籠城しました。英米独露など八ヵ国軍の事実上の指揮官は英国公使クロード・マクドナルドでしたが、柴五郎中佐が率いた陸戦隊が兵の練度、士気、統制においては八ヵ国軍の中で際立っていました。マクドナルドはこれを高く評価し、柴はこの功績でヴィクトリア女王より勲章を受けました。この事件がきっかけとなって英国はそれまでの「名誉ある孤立」戦略を変更して、東アジアにおける盟邦として日本を選択することになったのです。
論理的な説得や忍耐強い外交努力よりも要するに「戦争に強いかどうか」で国際社会はその国を認知する。日本人は義和団事件と日英同盟の歴史的経験からそのような教訓を引き出しました。この「成功体験」によって、日本人は外交に成功しようと思ったら、まず軍事的成功を、と考えるようになりました。国際社会において重きをなしたいと思ったら、指南力のあるメッセージを発信し、あるいは広々としたヴィジョンを提示することより、端的に軍事的に強いことが最優先するのだと日本人は信じた。この信憑はその後の日本外交に暗い影を落とすことになりました。
3.幕末から明治まで、日本の外交面に大きな変化がありますか?外国に対する態度、外交戦略など。中国、朝鮮、東南アジアとロシアと欧米列強を分けてみますか?
上に述べた通り、幕末の日本には「外交戦略」と呼べるようなものはありません。それらしきものができるのは明治以降であり、それは「近代的帝国主義化」という一言に尽くされます。具体的には富国強兵、殖産興業です。欧米列強に伍すことのできる「近代的帝国主義国家」建設にすべての国民的リソースを集中する。この国策に反対するものは国内にはほとんどいませんでした。
ただし、近代化には法治主義の徹底、学制の整備、海外の学術や芸術の受け入れといった要素も含まれています。優先順位は軍事・科学技術にははるかに遅れますが、それでも明治の日本人がわずかな期間のうちにあらゆる領域で近代国家らしき外見を整えることに成功したことは事実です。
欧米列強に対する外交戦略と、アジア諸国に対する外交戦略は違うかというご質問ですけれど、本質的には違いはないと思います。違うとしたら、欧米列強に対しては「日本はあなたがたと同じ近代的な帝国主義国家である」という「同質性」をアピールし、アジア諸国に対しては「日本はあなたがたとは違う近代的な帝国主義国家である」という「異質性」をアピールしたということでしょう。福沢諭吉の『脱亜論』はその好個の例です。