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大学院の変容・貧乏シフト ☆ あさもりのりひこ No.579

日本の大学の劣化は「貧して鈍した」せいである。

「貧する」ことはよくあることで恥じるには及ばない。だが、「鈍した」ことについては深く恥じねばならない。

 

 

2018年9月10日の内田樹さんの論考「大学院の変容・貧乏シフト」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

毎月ある地方紙にエッセイを寄稿している。これは8月分。

 

人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減っていることが文科省の調査で判明した。これまでも海外メディアからは日本の大学の学術的生産力の低下が指摘されてきたが、大学院進学者数でも、先進国の中でただ一国の「独り負け」で、日本の知的劣化に歯止めがかからなくなってきている。

人口当たりの学位取得者数を2014~17年度と08年度で比べると、修士号は、中国が1.55倍、フランスが1.27倍。日本だけが0.97倍と微減。博士号は、韓国が1.46倍、イギリスが1.23倍。日本だけが0.90倍と数を減らした。

当然だと思う。さまざまな理由が指摘されているけれど、一言で言えば「大学院というところが暗く、いじけた場所になった」からである。若くて元気な人間なら、せっかくの青春をそんなところで過ごしたくはない。

と書いておいてすぐに前言撤回するのも気が引けるが、実は大学院は昔から暗くて、いじけた場所だったのである。にもかかわらず学術的生産性は高かった。どうしてか。

私が大学生の頃、大学院進学理由の筆頭は「就職したくない」だった。それまで学生運動をやったり、ヒッピー暮らしをしていた学生が、ある日いきなり髪の毛を七三に分けて、スーツを着て就活するというは、傍から見るとずいぶん見苦しいものだった。「ああいうのは厭だな」と思った学生たちはとりあえず「大学院でモラトリアム」の道を選んだ。私もそうだった。

ところが、こんな「モラトリアム人間」ばかり抱え込んでいた時期の大学院が、学術的にはきわめて生産的だったから不思議である。

それはちょうど日本社会が高度成長からバブル経済にさしかかる頃だった。同年配でも目端の利いた連中は金儲けに忙しく、世情に疎い貧乏研究者たちに「ふん、金にならないことしてやがる」という憐みと蔑みの視線を向けはしたが、「そんな生産性のないことは止めろ」とは言わなかった。人文系の学者が使う研究費なんて彼らからすれば「鼻くそ」みたいな額だったからである。だから、「好きにさせておけ」で済んだ。おかげで、私たち経済的生産性の低い研究者たちは、世間が金儲けに忙殺されている隙に、誰も興味を持たない、さっぱり金にならない研究に日々勤しむことができた。そして、それが結果的には高い学術的アウトカムをもたらした。そういう意味ではよい時代だった。

でも、バブルがはじけて、日本全体が貧乏臭くなってから話が変わった。「貧すれば鈍す」とはよく言ったもので、「金がない」という気分が横溢してくると、それまで鷹揚に金を配ってくれた連中がいきなり「無駄遣いをしているのは誰だ」と眼を吊り上げるようになる。「限りある資源を分配するのだ。生産性・有用性を数値的に格付けして、その査定に基づいて資源を傾斜配分すべきだ」と口々に言い出した。

「数値的な格付けに基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。

というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。

「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。

「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである。

独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認められないアカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。

日本の大学の劣化は「貧して鈍した」せいである。

「貧する」ことはよくあることで恥じるには及ばない。だが、「鈍した」ことについては深く恥じねばならない。