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言論の自由について ☆ あさもりのりひこ No.584

「言論の自由」は「場に対する敬意」を滋養にしてしか生きることができない。

だから、挙証の手間を惜しみ、情理を尽くして語ることを怠り、罵倒や呪詛を口にする者は「言論の自由」そのものを痩せ細らせている。彼らが「言論の自由」を権原に自分の行為を正当化することはできないだろうと私は思う。それは泉水に向かってつばを吐きかけ、放尿する者が「泉水から清浄な水を汲み出す権利」を主張しているさまに似ている。彼らに向かって私たちは「権利を言い立てるより前に、まずその行為を止めなさい。君たちの行為そのものが、君たちが求めているものの入手をむずかしくしているからだ」と言うべきだろう。

 

 

2018年9月25日の内田樹さんの論考「言論の自由について」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

以前にもブログに掲載した旧稿だけれど、『新潮45』の休刊という事件を迎えて、改めて「言論の自由」についての私見を明らかにしておきたいと思って再録。

 

かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、「紅白歌合戦」の視聴率が80%だった時代の話である。

その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。政治的意見にしても、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を「口真似する」というかたちで自分の意見を表明することができた。それらのセンテンスはほぼ同じ構文で書かれ、ほぼ同じ語彙を共有しており、ほぼ同じ論理に従い、未来予測や事実評価にずれはあっても、事実関係そのものを争うことはまずなかった。それだけ言説統制が強かったというふうにも言えるし、それだけ対話的環境が整っていたとも言える。

ものごとには良い面と悪い面がある。

ともかく、そのようにして、マスメディアが一元的に情報を独占する代償として、情報へのアクセスの平準化が担保されていた。誰でも同じような手間暇をかければ、同じようなクオリティの情報にアクセスできた。「情報のデモクラシー」の時代だった。

これはリアルタイムでその場に身を置いたものとしては、「たいへん楽しいもの」として回想される。

内田百閒と伊丹十三が同じ雑誌に寄稿し、広沢虎造とプレスリーが同じラジオ局から流れ、『荒野の七人』と『勝手にしやがれ』が同じ映画館で二本立てで見られたのである。

小学校高学年の頃、私は父が買ってくる『文藝春秋』と『週刊朝日』を隅から隅まで読んだ。それだけ読んでいると、テレビのクイズ番組のほとんどすべての問題に正解できた。そういう時代だった。

だが、70年代から情報の「層化」が始まる。

最初に「サブカルチャー系情報」がマスメディアから解離した。

全国紙にはまず掲載されることがない種類のトリヴィアルな情報が、そういうものを選択的に求める若者「層」に向けて発信され、それがやがてビッグビジネスになった。「異物が混在する」時代が終わり、「異物が分離する」時代になったのである。

たしかに、筒井康隆の新作を読むつもりで買った月刊誌に谷崎潤一郎の身辺雑記が掲載されていたら、「こんなのオレ読む気がないのに、その分について金出すのもったいない」と思う読者が出て来ても仕方がない。

そうして、メディアの百家争鳴百花繚乱状態が始まった。

そのときも「別に、これでいいじゃん」と私は思っていた。みんなも「これでいいのだ」と言っていた。それによって、社会集団ごとにアクセスする情報の「ソース」が分離するようになってきた。国民全員が共有できる「マス言論」という場がなくなった。

今の若い人はもう新聞を読まない。テレビも見ない。必要があれば、ニュース記事はネットで拾い読みし、動画はYou tubeで見る。

「必要があれば」というのは、当人のまわりで「それ」が話題になっているときに、キャッチアップする「必要があれば」ということである。まわりで話題にならなければ、戦争があっても、テロがあっても、政権が瓦解しても、通貨が紙くずになっても、どこかの国が水没しても、どこかの国の原発が爆発しても、そんなことは「知らない」。

マス言論というのは、いわば「自分が知っている情報」の価値を評価するためのメタ情報である。

マス言論の場に登録されていない情報を自分が知っていることがある。それはとりあえず私が知っているこの情報は「国民レベルで周知される必要のない情報」だという査定がどこかでなされたということを意味している。

「国民レベルで周知される必要のない情報」には二種類ある。

「重要性が低いので、周知される必要がない情報」(例えば、「今のオレの気分」)

もう一つは、「あまりに重大なので、それが周知されると社会秩序に壊乱的影響を及ぼす情報」(例えば、尾山台上空にUFOが飛来した)。

その二つである。

そして、私たちは長い間のマスメディア経験を通じて、「自分は現認したが、マスメディアに報じられない情報」はとりあえず「第一のカテゴリー」に入れる訓練を受けていた(ぶつぶつ文句を言いながら、ではあるが)。

それが揺らいできた。

マスメディアの「情報査定機能」が著しく減退した(少なくとも、「減退したと信じられている」からである)。

マスメディアの情報査定機能が低下すると、何が起こるか。

私たちは自分の知っている情報の価値を過大評価するようになる。

私が知っていて、メディアが報道しない情報は、「それを知られると、社会秩序が壊乱するような情報」であるという情報評価態度が一般的になる。「第二のカテゴリー」が肥大化するのである。

今のネット上の発言に見られる一般的傾向はこれである。

自分自身が送受信している情報の価値についての、無根拠な過大評価。

自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落している。

ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。

言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。

それはさしあたりは、自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。

根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに退けられねばならない。

それは「言論の自由」になじまない。

なぜなら、「言論の自由」とは制度でもないし、規則でもなく、「言論が行き交う場に敬意を示すことによって、その場の威信を基礎づける」という遂行的な営みそのもののことだからである。「言論の自由」は「そこにある」ものではない。私たちが身銭を切って創り出すものである。

「日本には『言論の自由』なんかない」と言い捨てたある社会学者がいた。私はこの発言は遂行的には「言論の自由」を掘り崩し、汚すものだと思う。

「責任者出てこい。『言論の自由』を整備して、ここに持って来い」という言葉を一億人が唱和しても、それによって「言論の自由」が基礎づけられ、機能するということはない。だって、その言葉には「言論の自由」に対する敬意が少しも含まれていないからである。

「言論の自由」は「場に対する敬意」を滋養にしてしか生きることができない。

だから、挙証の手間を惜しみ、情理を尽くして語ることを怠り、罵倒や呪詛を口にする者は「言論の自由」そのものを痩せ細らせている。彼らが「言論の自由」を権原に自分の行為を正当化することはできないだろうと私は思う。それは泉水に向かってつばを吐きかけ、放尿する者が「泉水から清浄な水を汲み出す権利」を主張しているさまに似ている。彼らに向かって私たちは「権利を言い立てるより前に、まずその行為を止めなさい。君たちの行為そのものが、君たちが求めているものの入手をむずかしくしているからだ」と言うべきだろう。

情理を尽くして語ることを怠る者は、その行為そのものによって、彼らが実は「言論の行き交う場」の審判力を信じていないということをはしなくも告白している。

というのは、彼らは真理についての公共の場における検証に先だって、「自分はすでに真理性を確保している」と思っているからだ。聴き手に向かって「お前たちがオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っている人間は言論の場に集まってきた人たちに向かって、「お前たちが存在してもしなくても、何も変わらない」と告げているのである。

 

それはある種の「呪い」の言葉である。人間の生きていることの意味の根源を掘り崩す言葉である。私たちは呪いの言葉を浴び続けているうちに、ゆっくり、しかし確実に生命力を失う。それゆえ、「言論の自由」には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思うのである。