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『武道的思考』文庫版のための序文(後編) ☆ あさもりのりひこ No.646

「いずれ何かの役に立ちそうなもの」の有用性を先駆的に直感できる能力は、「いずれ死活的なリスクをもたらす可能性があるもの」の有害性を先駆的に直感できる能力と裏表のものです。

 

 

2019年3月17日の内田樹さんの論考「『武道的思考』文庫版のための序文」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

本書にも「ブリコルール(bricoleur)」について書いた文が収録されていますけれど、「ブリコルール」というのは、「ありものの使い回しで用を弁ずることができる人」のことです。その辺にある材料や道具で、「本棚」や「犬小屋」を手際よく作ってしまう日曜大工のことです。でも、ただの「器用な人」ではありません。ブリコルールであるためには、それなりの修練が必要です。

レヴィ=ストロースが『野生の思考』で取り上げたマトグロッソのインディオたちは、ジャングルの中で「何か」と目が合うと、それをとりあえず背中の合切袋に放り込みます。移動民ですから、それほど大きな荷物は運べません。自分で背負えるだけです。さて、その場合、資産として選択されるのは何でしょう。

そのうち何かの役に立ちそう」だと思われたものです。

そのうち何かの役に立ちそうだけれど、いまは何の役に立つのか、わからない。何の役に立つかわからないけれど、先駆的にその有用性が直感される。

そういう直感能力が人間には具わっています。そのような能力が具わっていたからこそ、人間は「道具」というものを制作することができた。僕はそう思います。

人間が道具を制作したのは、まず「こういう道具を作ろう」というアイディアが先行して、それに必要な素材を集めて作ったという順番ではないと僕は思います。逆です。まず、「いまは何の役に立つかわからないけれど、何か心惹かれるもの」が目に留まる。それを拾い上げて、手元に置いておく。そして、ある日、ふと「それ」を使うと「こんなもの」が作れるということに気づく・・・そういう順番で人類は道具というものを創り出したんだろうと僕は思います(見てきたわけじゃありませんが)。でも、そうであるはずです。そういう能力を選択的に発達させておかないと、資源の乏しい環境を生き延びることはできませんから。

「いずれ何かの役に立ちそうなもの」の有用性を先駆的に直感できる能力は、「いずれ死活的なリスクをもたらす可能性があるもの」の有害性を先駆的に直感できる能力と裏表のものです。「いまは何の役に立つかわからないけれど、そのうち役に立ちそうな気がするもの」を感知できる力と「いまはとりわけ危険なものに思われないけれども、そのうち命とりになりそうな気がするもの」を感知できる力は同じひとつの能力の別の現れ方です。

ジャングルの中で暮らすインディオたちは、肉食獣や毒蛇がうごめく環境の中で暮らしているわけですから、「こっちに行ったら、なんだか悪いことが起きそうな気がする」という危機察知能力はきわめて高いはずです。

なにより、その能力は幼児のときから教えることができます。野獣と戦う技術はとても子どもには習得できませんし、成人でもよほど身体能力が高くないと習得できないかも知れない。けれども、危険の接近を遠くから感じ取るセンサーの精度を上げることなら、子どもにもできる。危険が接近すると「ざわざわする」とか「肌に粟が生じる」というような身体反応は適切なプログラムを整備すれば、選択的に強化することはできる。

僕はいまのところ「武道的」ということを、この二種類の予防的なふるまいのことと理解しています。リスクに「対症」的に対応するのではなく、「予防」的にふるまうこと。手持ちの資源の蔵している潜在可能性を、それが顕在化・可視化・数値化されるより前に感知できること。それがかたちをとるより以前に、危険の接近が感知でき、有用なものの有用性を感知できること。少しだけ時間をフライングすることです。

僕は武道の修業というのは、この「少しだけ時間をフライングする」能力の涵養だと思っています。そういう言葉づかいで武道について語る人はあまりいませんが、僕はそうだと思っています。昔の武人はそう言っていたように思えるからです。

武道の術語に「機を見る」というものがあります。自分が置かれている状況の意味を先駆的に直感することです。柳生宗矩の『兵法家伝書』にはこうあります。

 

「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゝり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり。座敷に諸道具をつらぬるも、其の所々のよろしきにつかふまつる事、是も其の座を見る事、兵法の心なきにあらず。」

 

機というのは現代語で言えば「タイミング」です。自分が「いるべき時/いるべきでない時」を識別することです。人との交わりには機を見る心が要ります。いるべき時に、いるべき場にいれば、巧まずして大きな成果を得ることができる。逆に、いるべきではない時に、いるべきではない場にいると(英語ではwrong time wrong placeと言います)、思わぬ災厄に巻き込まれ、ついにはそれがもとで命を失うこともある。

昔からそうだったんです。今でも、僕たちが日常的に遭遇するトラブルって、だいたい「こういうもの」です。だから、昔の侍は用事のないところには出かけなかった。「どうしても、あなたにはこの時に、ここにいて欲しい」とピンポイントで懇請されてはじめて腰を上げた。

座敷に道具を配するのには「座を見る心」が要ると宗矩は言います。それをただ「インテリアデザインのセンスがいい」というような審美的な意味で解してはならないと思います。そんなことは「兵法」とは言われません。宗矩が言っているのは、「ブリコルール」の心得です。

武士が座敷に置くことが許された諸道具はごくごく限られたものです。それを「所々のよろしきにつかふまつる事」というのは、数量的には最少の、にもかかわらず潜在可能性において最大であるような道具を選べということです。

塚原卜伝は不意打ちに斬りかかられたときに、とっさに「鍋の蓋」で剣を制したという話が知られています。これは「手持ちの道具で急場をやりくりする」の能力の高さを顕彰したものですけれど、同時に、限られたものしか置けない手持ちの資源には、「いつかこれが死活的に重要になるかも知れない」と思われるものを選べ、道具の配列に際してはまず「座を見よ」という武人の心得を伝えたものかも知れません(この鍋の蓋は卜伝の手作り道具だったんじゃないでしょうか。自分で木を伐り出してきて、丈夫で、硬くて、鍋の蓋以外にも汎用性のありそうな道具を手作りした)。

 

以上がいまの時点での、僕の「武道的」ということの理解です。

物資が潤沢で、社会が平和で安全だった時代には、こういうことを僕が力説しても、あまりはかばかしい反応はありませんでした。でも、時代はずいぶん変わりました。現代の日本はもう以前ほど豊かでも、安全でもありません。「金さえあれば欲しいものは何でも手に入る」というような言葉に同意する人はさすがにもう若い人の中には見出し難くなりました。

 

人類史のほぼ全期間、人間は手持ち資源の潜在可能性を考量する力、災厄を事前に感知する力を高めることで、生き延びてきました。「武道的」な生き方の方こそが、もともとは人類の初期設定なんです。「武道的」でなくても生きてこられたここ半世紀ほどの日本の方が人類史的には例外なんです。でも、残念ながら、もうそういう時代は終わりつつあります。僕たちは来るべき時代に備えて、「初期設定」に立ち返る必要がある。僕はそう考えています。そういう歴史的文脈に即して本書を読んでいただけたらと思います。