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『ためらいの倫理学』韓国語版序文「お気軽であることの効用について」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.682

長く生きてわかったことなので申し上げますけれど、創造に相関するのは、お金のあるなしでも、知名度のあるなしでもありません。「査定的なまなざしにさらされない。格付けされない」ということです。

 

 

2019年4月15日の内田樹さんの論考『ためらいの倫理学』韓国語版序文「お気軽であることの効用について」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

いまの40代の文系研究者にこれを読ませたら、たぶん80%くらいの人は、片頬を歪めて「ふっ」と鼻で笑うんじゃないでしょうか。「ウチダさんたちはいいよね。子どものころは花の戦後民主主義で気前のよい権限委譲に浴し、高度成長期でどんどん羽振りがよくなり、学生の頃は学園紛争で好き放題に壊せる限りのものを壊しまくり、そのあとバブル期になると、『革命がどうたら』と言っていた同じ口で『ワインがどうたら』と御託を並べて、古希近くなったら『もうすぐ死ぬんだから、好きにさせてくれよ』ですからね。まったく、お気楽で羨ましいわ。」

いや、ほんとにそうですよね。そう言われても一言もありません。

どういう時代に生まれ、育つかということは自分では選べない。1950年に生まれたということはまったくの偶然ですけれど、僕がこれまで好きなことをして、それでも愉快に暮らしてこられたのは間違いなく時代の巡りあわせのおかげです。もし、僕があと20年遅く生まれていたら、大学の教師にはなれなかったでしょう。レヴィナスを翻訳する機会も与えられなかったでしょうし、仮に他の仕事の合間に本を書くようになっていたとしても、出版点数は今の10分の1くらいだったでしょう(もちろん『ためらいの倫理学』のような本を出版してくれる奇特な編集者もいなかったでしょう)。

いわばこの本は僕が1950年生まれだったせいで存在した本です。そう言ってよいと思います。ですから、そのような歴史的条件下でなければなかなか書けないことが書かれています。

全テクストに伏流しているのは「お気楽」だということです。

査定的なまなざしに怯えることなく書いているということです。

この本に収録されているテクストを書いている時期、僕の書きものについて、うるさく査定をしたり、点数を付けたり、重箱の隅をほじくるような揚げ足取りをしたり、呪いの言葉をSNSで吐きつける人はいませんでした。

そんなことをぜんぜん気にしないで書いていられた。

もちろん「これを読んだら怒り出す人がいるかも知れない」と思ってはいたわけですけれど、実際にそういうリスクはほとんどありませんでした。なにしろ、こちらは無名の大学教師です。先方には(政治家であれ、学者であれ)僕の書いたものを読む義理がないし、機会もない。偶然読んだとしても、わざわざ取り上げて僕を論破してみても、何の手柄にもならない。「こんなの相手にしても時間の無駄だよ」で済んだ。

だから、お気楽でいられた。

今はそうはゆきません。どんな人が何について書いても、それを批判的・査定的なまなざしで読む人の数が桁違いに増えましたから。だから、どこに何を書くにしても、底意地の悪い査定的なまなざしを想定して、それに対してきちんと「ディフェンス」を固めてからしか書き出すことができない。でも、それって、なんだかもったいない気がするんです。底意地の悪い人からの小うるさい揚げ足取りなんかどうでもいいじゃないですか。そんなものにいちいちとりあって、きちんと反論できたとしても、それによって書くものの疾走感が増すということは絶対にありません。絶対に。「ディフェンスを固めつつドライブ感を出す」とか「エビデンスを揃えた上で『命がけの跳躍』を果たす」とかいうことはできないんです。でも、若い人の知的なブレークスルーにほんとうに必要なのは、「疾走」であり、「跳躍」なんです。

いまの日本の言論環境は若い人たちに疾走も跳躍もさせないように構造化されています。気の毒ですけれど。

ブレークスルーは査定的なまなざしと相性が悪いんです。イノベーションが成り立つためには、「小うるさい連中の目にとまらないで、ほっておいてもらう」ということが必要なんです。あまり言う人がいませんけれど、そうなんです。

だから、いまほんとうにクリエイティブな若者たちは「小うるさい連中」の目にとまらないところで、彼らの「死角」で、彼らの既成の「ものさし」でその価値が考量できないようなものを創り出そうとしているように僕には見えます。

長く生きてわかったことなので申し上げますけれど、創造に相関するのは、お金のあるなしでも、知名度のあるなしでもありません。「査定的なまなざしにさらされない。格付けされない」ということです。それだけで若い人たちの創造的なエネルギーを解発するには足りる。僕はそう思います。僕は若い人たちにはもっともっと「お気楽」であって欲しいと願っています。

 

本書が取り上げたトピックは20年前のものなのですが、それでもあまり「時代遅れ」という印象はしないと思います。それは、これが当時「流行っていたもの」に背を向けた、かなり反時代的な書物だからです。

「流行らないものは、廃らない」という金言がありますけれど、けだし名言だと思います。

一度「時代の寵児」になると、時代が変わると(その作品の質にかかわらず)自動的に「歴史のゴミ箱」に投じられてしまいます。まことにもったいないことだと思いますけれど、それが「流行ったもの」の宿命です。

さいわい僕は子どもの頃からずっと「メインストリームからはずれた傍流」が定位置で、「放っておいてもらう」ことが何より好きなので、流行に乗れたことがありません。ですから、いつの時代でも「みんなと違うことを言う変なやつ」という立ち位置は変わらない。おかげさまで、僕の書いたものは「もう古い」というタイプの評言をこうむることなしに済んでいます(だからと言って「新しい」わけじゃないんですよ。ただ「変」というだけで)。

でも、いつの時代にも、そういう「変人枠」の物書きが少しくらいは許容されてもいいんじゃないかと僕は思います。

 

韓国の若い人たちがこの本を読んで「お気楽に生きる」方法を習得してくれることを僕は願っています。