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神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?
2019年5月29日の内田樹さんの論考「廃仏毀釈について」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。
神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心が仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。
神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?
神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。
次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。
驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。
そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。
それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。
この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。
ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。
ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった(もちろん明治政府はそんな言葉は使わないが)。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的迷妄」の排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのだとしたら、そこには(ひどい話だが)それなりに筋は通っている。
だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。
神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)統廃合してしまうという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。
だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
若干のタイムラグはあったけれど、廃仏毀釈と神社合祀は「宗教の近代化」という政治目標については、軌を一にした政策だったのである。たぶん。