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学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。
2019年5月31日の内田樹さんの論考「英語教育について」(その5)をご紹介する。
どおぞ。
たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。
ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。
この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。
目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は賛成できません。
僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。
外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。
フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。
外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。
でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。
達成目標があらかじめ開示された場合に、子どもたちの学習努力は大きく殺がれます。教育のプロセスをまじめに観察したことがある人間なら、誰でもわかることです。「勉強するとこんないいことがある」とか「勉強しないとこんなひどい目に遭う」というようなことをあらかじめ子どもに開示すると、子どもたちの学習意欲はあきらかに減退する。というのは、努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最少の学習努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです。
学習の場では決して利益誘導してはならないということを理解していない人があまりに多い。でも、長く教員をやってきてこれは経験的にはっきりと申し上げられます。賞品で子どもを釣ったり、恐怖で子どもを脅したりしても子どもたちの知的な能力は絶対に向上しません。彼らはどうやったら最少の学習努力で目的のものを手に入れるか、そこに全力を集中するようになるだけです。
大学で最初の授業のときにオリエンテーションをやると、必ず「先生、単位をもらえる最低点は何点ですか」と「この授業は何回まで休めますか」という質問が出ます。単位をとるための最低点と最少出席回数をまず確認する。「ミニマム」を知ろうとするわけです。これは消費者マインドを持って教室に登場した学生にとっては当然の質問です。「これいくらですか?」と訊いているわけですから。
彼らにとって単位や学位や免状や資格は「商品」なんです。そして、学習努力は「貨幣」です。だから、買い物客が「この商品の価格はいくらですか?」と訊くように、「この授業で求められる最少学習努力はどの程度ですか?」を訊いてくる。
求める商品にそれなりの価値があることは彼らだってわかっているのです。でも、どんな価値のある商品であっても、一番安い価格で買うというのは消費者の権利であり義務であるわけです。特売コーナーで同じ商品が安く売っていたら、カートに入れた商品を元の棚に戻して、特売コーナーの同一商品をカートに入れる。それは買い物をする人間としては当たり前のことです。「元の棚」がかなり遠いところであっても、ごろごろカートを押して、そこまで戻しにゆく。その手間を別に惜しいとは思わない。それが消費者です。
ですから、消費者としてふるまう学生たちの目には、出席をとらない科目、毎年同じ試験問題を出す科目、丸写しレポートでも単位をくれる科目は「特売コーナー」に置かれている商品のようなものとして映る。「特売商品」で同じ単位がもらえるなら、そういう「楽勝科目」だけを集めて卒業単位を稼ぐのが最もクレバーな学生生活であることになる。消費者マインドが骨までしみついた学生たちは、大学に来てまで「どうすれば最も少なく学べるか」をめざして努力するようになる。
もし書店に「3ヵ月でTOEICスコアが100点上がる」という参考書があったとします。それを買おうと思って、横を見たら「1ヵ月で100点上がる」という本があった。当然、そちらを買う。でも、その隣に、「1週間で100点上がる」という本があった。これはもうこちらを買うしかない。でも、そのさらに横には「何もしなくても100点上がる」という本があった。もう迷わずこれを買う。
そういうものですね。学習の達成目標が決まっていれば、あとはいかに少ない学習努力でそれを達成するかというところに知恵を使う。それが最も合理的であるということは子どもにだってわかります。ですから、学校で「勉強すると、こんないいことがある」という仕方で功利的に誘導するのは自分で足元を掘り崩しているようなものなのです。