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たぶん人がいない、静まり返った空間でないと書物がシグナルを送ってくるという不思議な出来事が起きにくいからだと思います。
2019年7月20日の内田樹さんの論考「図書館について(前編)」をご紹介する。
どおぞ。
「最終講義 韓国語版 あとがき」としてこんな話を書いた。
みなさん、こんにちは。内田樹です。
『最終講義』韓国語版お読み頂きまして、ありがとうございます。
これは講演録です。講演録といっても、録音を文字起こししただけだと、話がくどすぎたり、逆に説明が足りなかったり、言いかけた固有名詞や年号や数値が思い出せなかったり、間違えたりというころがあるので、読みやすくするために少しは加筆しています。でも、だいたい話すときは「こんな感じ」です。
「あとがき」に書いてある通り、講演のときに僕はあまり準備をしません。その場に行って、看板を見上げて「あ、今日はこんな演題なんですか」と驚くことさえあります。それでも、「どういう演題でお話頂けますか?」という問い合わせに対して自分で選んだ演題ですから、その時点では「こういう話をしよう」という腹案があったはずです。自分の腹の中のどこかにあるものなら、探せば出て来ます。なんとなく適当に「まくら」で近況なんか話しているうちに、ふっと「ああ、あの話をしようと思っていたのか」と思い出します(最後まで思い出せないときもありますけど)。
講演でパワーポイントを使う人がいますけれど、僕は一度もやったことがありません(だから、パワーポイントはもちろん僕のPCに標準装備されていますけれど、使い方を知りません)。だって、自分が何を話すのか、最初から最後までプログラムが出来上がっていたら、つまらないじゃないですか。それなら、講演をテープにでもICレコーダーにでもあらかじめ吹き込んでおいて、現場のエンジニアに「この台詞が来たら画面切り替えてください」というような指示書をわたしておけばいい。本人がわざわざ来て、そこにいるのに、「録音の再演」みたいなことをしたくないです。
せっかくなら、講演の途中に、一つでもいいから、これまで一度も口にしたことのないアイディアを口にしてみたい。僕の場合は、たぶんそれが講演を引き受ける一番の動機なんだと思います。そして、実際に、講演で「これまで自分が話してきた、いつもの話」をちょっと退屈しながら再演しているうちに、それを「助走」として、話がいきなり「飛ぶ」ことがあります。
つい先日もそんなことがありました。「あとがき」代わりにその話を書くことにします。
それは公共図書館の司書の方たちの年次総会での講演でした。図書館の役割についてご提言頂きたいということで、お引き受けしたのです。図書館の役割についてですから別にむずかしい話じゃないです。
そのときに、九州のある市立図書館のことに触れました。その図書館は民間業者に業務委託したのですが、その業者はまっさきに所蔵されていた貴重な郷土史史料を廃棄して、自分の会社の不良在庫だったゴミのような古書を購入するという許し難い挙に出ました。ところが、そうやって図書館の学術的な雰囲気を傷つけ、館内にカフェを開設するというような「俗化」戦略をとったら、顧客満足度が上がって、来館者数が二倍になった。
民間委託を進めていた人たちは「ほらみたことか」と手柄顔をしました。図書館の社会的有用性は来館者数とか、貸出図書冊数とか、そういう数値によって考量されるべきだというのは、いかにも市場原理主義者が考えそうな話です。
そのときに、ふっと「図書館というのはあまり人が来ない方がいいのだ」という言葉が口を衝いて出てしまいました(ほんとうにふとそう思ったのです)。
そう言ってしまってから、「ほんとうにそうだな。どうして図書館は人があまりいない方が『図書館らしい』のか?」と考え出して、それから講演の残り時間はずっとその話をすることになりました。
図書館の閲覧室にぎっしり人が詰まっていて、玄関の外では長蛇の列が順番待ちをしている・・・というのは図書館を愛用している人たちにとっても、そして、図書館の司書さんたちにとっても、想像してみて、あまりうれしい風景ではないのじゃないかと思います。連日連夜人が押し掛けて、人いきれで蒸し暑い図書館が理想だ・・・という人はとりあえず図書館関係者にはいないと思います。
その点で、図書館はふつうの「店舗」とは異質な空間です。だから、来館者数がn倍増えたことは図書館の社会的有用性がn倍になったことであるというように推論をして怪しまないようなシンプルマインデッドな人たちには正直言って、図書館についてあれこれ言って欲しくない。
僕がこれまで訪れた図書館・図書室の中で今も懐かしく思い出すのは、どれも「ほぼ無人」の風景です。僕以前には一人も手に取った人がいなさそうな古文書をノートを取りながら読んでいたときの薄暗く森閑としたパリの国立図書館の閲覧室、やはり古いドキュメントを長い時間読みふけっていたローザンヌの五輪博物館の図書室に差し込む西日、文献を探して何時間も過ごした都立大図書館のひんやりした閉架書庫、僕の研究室があった神戸女学院大学の図書館本館の閲覧室を見下ろす3階のギャラリー、僕にとって「懐かしい図書館」というのはいずれもほとんど人がいない空間です。たぶん人がいない、静まり返った空間でないと書物がシグナルを送ってくるという不思議な出来事が起きにくいからだと思います。
ほんとうにそうなんです。
本が僕に向かって合図を送ってくるということがある。でも、それはしんと静まった図書館で、書架の間を遊弋しているときに限られます。
そういうとき、僕は自分がどれくらい物を知らないのかという事実に圧倒されています。どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕は読んだことがないからです。この世界に存在する書物の99.99999・・・%を僕はまだ読んだことがない。その事実の前にほとんど呆然自失してしまう。でも、それは別にだから「がっかりする」ということではないんです。僕の知らない世界が、そしてついにそれについて僕が死ぬまで知ることのない世界がそれだけ存在するということに、「世界は広い」という当たり前の事実を前にして、ある種の宗教的な感動を覚えるのです。
そして、これらの膨大な書物のうちで、僕が生涯に手に取るものは、ほんとうに限定されたものに過ぎないのだということを同時に思い知る。
でも、それらの書物は、それだけ「ご縁のある本」だということになります。
そう思って、書棚の間を徘徊していると、ふとある書物に手が伸びる。かろうじて著者名には見覚えがあるけれど、どんな人で、どんなことを書いたのか、何も知らない。そういう本に手が伸びる。そして、そういう場合には、高い確率で、そこには僕がまさに知りたかったこと、そのとき僕がぜひとも読みたいと思っていた言葉が書かれている。ほんとうに例外的に高い確率で、そうなんです。
僕のこの経験的確信について、人気のない図書館の中をあてもなく歩いた経験のある人の多くは同意してくれると思います。そういうものなんです。人間にはそれくらいのことは分かる能力が具わっている。でも、その能力を活性化するためには、いくつかの条件が必要です。