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図書館とは、そこに入ると「敬虔な気持ちになる」場所です。世界は未知に満たされているという事実に圧倒されるための場所です。
2019年7月20日の内田樹さんの論考「図書館について(後編)」をご紹介する。
どおぞ。
一つは「無人の時間」が確保されていること。できたら一日の半分以上は閉館されていて欲しい。
もし、365日、24時間開いている図書館が理想だという人がいたら、その人が求めているものは図書館ではありません。それとは別の、おそらくネット上のアーカイブで代用できるものです。いますぐ調べたいことがある、レポートを仕上げるために明日までに読まなければならない本がある・・・というような人たちは、蔵書がすべてデジタルデータ化されているので、自宅のPCのキーボードを叩くだけで必要な情報が取り出せるということになったら二度と図書館には足を向けないでしょう。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。
図書館とは、そこに入ると「敬虔な気持ちになる」場所です。世界は未知に満たされているという事実に圧倒されるための場所です。その点では、キリスト教の礼拝堂やイスラムのモスクや仏教寺院や神道の神社とよく似ています。そういう「聖なる場所」にはときどき人がやってきて、祈りの時間を過ごし、また去ってゆきます。特別な宗教的祭祀がない限り、一日のうちほとんどの時間は無人です。美しく整えられた広い空間が、何にも使われずに無人のまま放置されている。そのことを「空間利用の無駄だ」と思う人がいたら、その人は宗教と無縁の人です。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。
仮に教会の礼拝堂を、「誰も使わない時間があるのに、何も利用していないのはもったいない」という理由で、カラオケ教室とか、証券会社の資産運用説明会とか、スーパーの在庫商品一掃セールとかに時間貸ししたらどうなるでしょう? 利用者たちが帰った後に、祈りのために礼拝堂に来た人は「おや、なんだか空気が乱れている」と感じるはずです。絶対に感じるはずです。それくらいのことが感じられないような人が自発的に礼拝堂で神に祈る気になるということはありません。
この空気の乱れは、端的に「たくさんの人間がそこで祈り以外のことをした」ことによって生じたものです。
そういう空気の乱れが鎮まるまでには時間がかかります。たぶん24時間くらいかかる。それくらいその場所を無人にしておかないと、空気の乱れは治まらない。
何を根拠にそんなことを断定できるのかと言われても、別に根拠なんかありません。何となく、そんな気がするというだけのことで。
でも、超越的なもの、外部的なもの、未知のものをある場所に招来するためには、そこをそれだけのために空けておく必要があるということはわかりますよね。
天井までぎっしり家具什器が詰まっていて、四六時中人が出入りしている礼拝堂は祈りに向かない。当たり前です。ある範囲の空間内に「何もない」こと、ある範囲の時間内に「何も起きていない」ことがある場所を霊的に「調える」ためには必要なんです。
そのことは道場を持つとよくわかります。
僕は自宅の一階を武道の道場にしています。朝早くに道場に降りて行って、そこで短い勤行をするのが僕の日課です。神道の祝詞と般若心経を唱えるのです。そのとき、前日の稽古が終わってから、誰も入らなかった道場の扉を開けると、空気がひんやりとして、空気の粒子が細かくなっているのが感じられます。まれに二日間誰も道場に入らなかったということがあります。そういう時は扉を開く時、ちょっとどきどきします。場がしっかり調っているということがわかるからです。
武道の道場はお寺の本堂や教会と同じで、超越的なものを招来するための場所です。一種の宗教施設です。ですから、道場空間は調えておく必要がある。
場を調えるといっても、別に難しいことではありません。道場は畳が敷いてあるだけの「何もない空間」です。その道場の扉を開ける人間が一日いなければ、何もない空間に、何ごとも起きなかった時間がそれくらい確保されると、場が調う。
ユダヤ教の過ぎ越しの祭の食事儀礼「セデル」では食卓に一つだけ席が空いています。皿があり、カトラリーが並べられ、パンもワインも供されています。それはメシアの先駆者である預言者エリアのための席です。彼が来ないことを人々は知っています。過去何千年の間一度も来なかったんですから、帰納法的に推理したら、今年も来ない。そのことはわかっているんです。それでもエリアのために人の来ない食卓を整える。それは「何もない空間・何も起きない時間」が「聖なるもの」を受け入れるために必須の条件だと彼らが知っているからです。
僕は図書館というのも、本質的には超越的なものを招来する「聖なる場所」の一種だと思っています。だから、空間はできるだけ広々としていて、ものが置かれず、照明は明るすぎず、音は静かで、生活感のある臭気がしたりしないことが必要だと思う。低刺激環境であることが必要だと思う。
たぶんビジネスマインデッドな人たちはそんな話を聞いたら鼻先で笑うことでしょう。必ず笑うと思う。バカじゃないの、そんな無駄なことができるか、って。彼らは、狭い空間を効率的に使って、LEDで照明して、できるだけたくさんの来館者が館内を合理的な動線で移動して、てきぱきと用事を済ませられるような施設が理想だと言うでしょう。そして、配架する書物は回転率の高いものほど好ましいので、貸し出し実績の低い書物は「市場に選好されていない」がゆえに存在理由のない書物のことなのだから、どんどんゴミとして処分した方がいい、と。
でも、そういう人たちはたぶん書物というものの本質を何もわかっていない。人間が本を読むというのがどういう経験なのか何もわかっていない。
というような話をしました。
100人ほどの聴衆はほとんどが図書館の職員たちでしたけれど、しんと聴き入っていました。
自分でもまさか「図書館には人があまりいない方がいい」というような思いつきの一言で、ここまで話を引っ張るとは思いませんでした。
そして、その時の話をこうやって「韓国語版のあとがき」に流用させて頂くことができました。これは僕にとっては一番最近思いついた「どこに転がるのかまだよくわからないアイディア」です。できたてのほやほやですので、これを韓国語版のための「お土産」とすることにいたしました。そんなもの貰っても、別にうれしくないよ、という方もおいででしょうけれど、まあ、そう言わずにひとつご嘉納ください。
以上、講演というのは、何が起きるか予測できないのでなかなか止められないという話でした。
では、また別の本でお会いしましょう。その時にはこのアイディアの「続き」がどうなったかお話しできるといいですね。
追伸:徒然草にこんなフレーズがあったのを思い出した。関係ないかも知れないけど。
「すべて何も皆、事の調(ととの)ほりたるはあしき事なり。為残(しのこ)したるをさてうち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるもかならず作り果てぬところをのこす事なりと、ある人申し侍りしなり。」