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家庭と学校を民主化しようとした四半世紀の努力の果てに、僕たちは民主主義を徹底させてみたら、民主主義的な組織はもたないということを暴露してしまった。そうやって「戦後民主主義の申し子」であった僕たちの世代が戦後民主主義の息の根を止めてしまった。
2019年8月12日の内田樹さんの論考「民主主義の時代(前編)」をご紹介する。
どおぞ。
ある「育児雑誌」でインタビューを受けた。その時に思いついて日本の民主主義はとても短命なものだった(過去形なのが悲しい)という話をした。それを再録する。
終戦を境に戦前の軍国教育は全否定され、日本はいきなり民主国家になりました。つい昨日までの治安維持法があり、特高や憲兵隊がいた時代に比べたら夢のように自由な社会が出現したわけです。家庭もそれに準じて、戦前までとは違う、まったく新しいものにならなければならないと人々は思っていた。ほんとうにそう思っていたのです。
でも、彼ら自身は親たちも教師たちも「民主主義」なんて知らない。戦前の家庭も学校も職場もどこにも民主主義なんかなかったからです。自分が経験したことがない理念をいまここで実践しなければならない。そういう歴史的急務に1950年代の親たち教師たちは直面していました。そして、僕が知る限り、彼らはかなり誠実にその「責務」を果たそうとしていました。ある時期までですけれども。
結論を先取りしてしまえば、「大人たち」が日本社会は民主主義的に組織されなければならないと本気で思っていた時代は1945年から1970年くらいまでの四半世紀のことだと僕は思っています。それ以前に日本に民主主義はまだ根づいていなかったし、それ以後はゆっくり枯死していった。
ですから、いまの50歳以下の人たち(1970年代以後に生まれ育った人たち)は言葉の厳密な意味での「民主主義」を経験したことがないと思います。
だから、僕の経験談を聴いたら、ずいぶん驚くんじゃないでしょうか。
内田家はきわだって民主的な家庭でした。ですから、週一回毎週水曜の夕食後に「家族会議」が開かれていました。父が議長、母が書記で、兄と僕が二人きりの議員でした。家族会議では休みの日にどこへ行くとか、犬の散歩は誰がするとかいうことを合議で決めていました(別に会議を開いて決めなくちゃいけないような事案ではなかったのですけれど、「家族会議」をやろうと言い出した父も、それくらいしか議題を思いつかなかったのでしょう)。
小学校六年生のとき、僕は児童会の議長をしていました。あるとき、生徒たちの意見が集約できず、顧問の先生を振り返って「先生、どうしたらいいでしょう?」と泣きついたことがあります。そしたら、「自分たちで決めろ。そのための児童会だろう」と一喝されたことを覚えています。そういう時代だったんです。子供たちが苦労して民主主義を学習しているのに教師が横から邪魔をしてはいけない、と。ほんとうにそう思っていた。
民主主義的な合意形成のためにはそれなりの技術が必要です。僕らの世代はその技術を児童会や生徒会で教え込まれた。民主的な審議とはどういうものか? 対立する議論はどうやって集約するのか? 合意形成のためには何が必要なのか? そういうことは子供のときから経験を積まないと身につきません。
いまの日本は法理的には民主主義社会ですけれど、実際には、それを適切に運用するノウハウをもう市民たちは有していない。だって、教わったことがないから。
だから、いまの日本の家庭は民主的でもないし、家父長制でもない。まことに中途半端なものになっています。
戦前の家父長制下では、家長は黙ってそこにいるだけで、役割を果たすことができた。たとえ中身がすかすかでも、黙ってそこにいて、定型的に家父長的なことを言っていれば、それなりの威厳があった。
ところが、民主的な家庭ではもう家長の威信という制度的な支えがありません。父親は正味の人間的な力によって家族を取りまとめ、その敬意を集めなければならない。でも、手持ちの人間的実力だけで家族の敬意を集めることができるような父親なんか、実はほとんど存在しなかった。家父長制の「鎧」を剥ぎ取られて、剥き出しになった日本の父親はあまりに幼児的で、あまりに非力だったことがわかった。
同じことは学校でも起きました。上に立って威張っていた教師たちの「正味の人間的実力」を測ったら、人の上に立つほどの実力がないということがたちまち暴露されてしまった。それが60年代末からの全国学園紛争の文明史的な意味だったと僕は思います。学生たちから「あなたたちは教壇で偉そうに説教を垂れているけれど、個人としてどれほどの人間なのか? 平場で勝負しようじゃないか」と言われた大学教師のほとんどが、腰砕けになってしまった。象牙の塔の権威がそれでがらがらと崩れてしまった。
家庭と学校を民主化しようとした四半世紀の努力の果てに、僕たちは民主主義を徹底させてみたら、民主主義的な組織はもたないということを暴露してしまった。そうやって「戦後民主主義の申し子」であった僕たちの世代が戦後民主主義の息の根を止めてしまった。もちろん、そのときはそんな重大なことをしているという自覚はありませんでした。でも、たしかに日本の戦後民主主義を扼殺したのは、僕たちです。僕たちが要求したのは、ある種の「実力主義」であり、「成果主義」であり、制度や組織の力を借りずに、独力で欲望を実現できる一種のアナーキーでした。60年代末から70年代はじめにかけて「遠くまでゆく」とか「ひとりきりで」とかいう言葉に政治少年たちは偏愛を示しましたけれど、要するに僕たちの世代は僕たちを柔らかく保護していた「民主主義という殻」を「邪魔くせえよ」と言って引き剥がし、「荒野に手に何ものも持たずに立つ」というようなタイプの生き方を「政治的に正しい(し、審美的にもかっこいい)」と思っていたのでした。
そういう「お気楽」な発想ができたことそれ自体が戦後民主主義の賜物だということを当時の僕たちは全然わかっていなかったのです。
とにかくそういうふうにして、民主主義の絶頂期において、その恩沢を最も豊かに享受していた世代集団によって民主主義は足蹴にされた。
ある種の「アナーキー」が登場したと上に書きましたけれど、戦後民主主義が崩れ始めて、日本社会を統合する組織原理が見失われ始めたときに、もう一度組織をバインドする新しい「統制力」が思いがけないところから登場しました。
それが日本社会全体の「株式会社化」です。