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民主主義は国が好調である時にはきわめて非効率的なものに見えますが、国難的危機のときには強い復元力を持ちます。でも、いまの若い人たちは、民主主義というものを単なる多数決という手続きのことだと思っている。できるだけ多くの人、多様な立場を合意形成の当事者に組み込むことで集団の復元力を担保する仕組みだということを知らない。
2019年8月12日の内田樹さんの論考「民主主義の時代(後編)」をご紹介する。
どおぞ。
僕が生まれた50年、日本の農業従事者は人口の49%でした。だから、久しく組織運営は村落共同体をモデルに行われていました。長い時間をかけてゆっくり満場一致に至るまで議論を練り、一度決めたことには全員が従い、全員が責任を負う。
でも、戦後民主主義の進行とぴたりと並走するようにして産業構造が変わった。そして、70年代には、ほとんどの人が株式会社的な企業の一員になった。
株式会社では、CEOに全権を委ね、その経営判断が上意下達されます。経営者のアジェンダに同意する人間が重用され、反対する人間は排除される。経営判断の適否を判断するのは従業員ではなく、マーケットです。どれほど社内で合意が得られなくても、マーケットが経営判断を支持して、商品が売れ、株価が上がるなら、経営者は正しかったことになる。
「マーケットは間違えない」という市場原理主義を信仰することで自動的に民主制は空洞化したのです。
株式会社は徹底的に非民主的な組織です。そして、気がつけばそれが社会組織の過半を占めるようになった。産業構造や企業組織に基づいて人間は「社会はどうあるべきか」を理解します。民主主義が衰微したのは、一つには僕たち戦後民主主義の受益者たちが、そのたいせつさを全然ありがたがらなかったからであり、もう一つは農村共同体が消滅し、株式会社が社会の基本モデルに採用されたからです。
いま安倍政権下では、政権与党は野党との合意形成のためにはほとんど労力を割きません。ある程度審議時間を費やしたら、多数決で強行採決して法律を通すことが当たり前になっている。そして、多くの国民はそのプロセスに心理的抵抗を感じていない。
それはわれわれの家庭も、学校も、企業も、どこにも民主的な合意形成で運営されている組織なんか存在しないからです。民主主義を知らない人たちが国会に民主主義がないことを怪しんだり、不満に思うことはありません。
でも、成員全員の合意をとりつける努力を怠る組織は、うまく回っているときはいいけれど、いったん失敗したときに復元力がない。
政策決定において自分たちの意見が無視されたと感じたメンバーはトップの失敗を「ざまあみろ」と嘲笑するだけで、その失敗に自分たちも責任があるとは思わない。劣勢から挽回するために全力を尽くす義理があるとも思わない。経営者が経営判断に失敗したときに従業員は減俸とか解雇とかいうかたちで「ひどい目」に遭うわけですけれども、でも、経営の失敗について「バカな経営者だ」と冷笑することはあっても、申し訳なく思ったり、反省したりすることはありません。わが身の明日は心配だけれど、会社の明日のことなんか「知るかよ」で終わります。
企業ではそれでいいかも知れません。でも、国の場合はそうはゆきません。
政権が外交や内政において失敗するということは巨大な国益の喪失を意味しています。場合によっては国土を失い、国富を失う。そのような事態に接して、国民の相当数が冷笑して、「ざまあみろ」と拍手喝采するというのはあってはならない異常事態です。
国政が誤ったときこそ全国民がその失政に責任を感じ、挙国的な協力体制を形成しなければならない。そうしないと国の衰微は止まりません。戦況がいいときは、先陣争いをして勢いに乗じてがんがんいけば無計画でもなんとかなりますけれど、後退戦は全員で計画的に戦わなければならない。
そして、できるだけ多くの人がこの失政に責任を感じて、自分が後退戦の主体であると感じるためには、それに先立った、できるだけ多くの人が国策の形成に関与している実感を持つ必要がある。
民主主義というのは、本来そのための制度だと僕は理解しています(今ごろ理解してももう手遅れかも知れませんが)。
民主主義は国が好調である時にはきわめて非効率的なものに見えますが、国難的危機のときには強い復元力を持ちます。でも、いまの若い人たちは、民主主義というものを単なる多数決という手続きのことだと思っている。できるだけ多くの人、多様な立場を合意形成の当事者に組み込むことで集団の復元力を担保する仕組みだということを知らない。
僕はそれを民主主義の危機だと思っているのです。