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知的生産は集団的な営みだからです。共同作業なんです。成員のひとりひとりが手持ちの知的資源を公共の場に差し出して、全員がそれぞれの知恵と工夫で、公共の場に供託された知的資源を素材に新しいものを創り出す・・・。そして、その作物がもたらす恩恵は集団成員の全員が享受できる。そういう開放的で対話的な場を立ち上げられる人を僕は「知性的な人」とみなします。
2019年8月15日の内田樹さんの論考「『女は何を欲望するか』韓国語版序文(後編)」をご紹介する。
どおぞ。
知性というのは集団的に発動するものだ、というのはちょっとわかりにくいと思いますけれど、具体的な事例を思い浮かべてください。
ときどき、個人的にはずいぶん頭が切れるんだけれど、その人がいて、うるさくあれこれ断言したり、適否の査定を下したりするせいで、周りの人間が混乱したり、自信をなくしたり、気鬱になったり、やる気が失せたり・・・するということがありますよね。みなさんの周りにもけっこうそういう人がいるんじゃないでしょうか。
そういう人はその人を単体で取り出して見ると、ずいぶん頭が良いように見えます。でも、なぜかその人がいるせいで、集団的な知的パフォーマンスが低下する。どうしてなんでしょうね。たぶん周りの人たちを過剰に緊張させてしまうんでしょう。他人にも自分と同じレベルを求めるとか、決して誤答を許さないとかして。そういう人が入ると、チームのパフォーマンスが下がるということは実際にあります。
AIというアイディアが最初に学術的なテーマに選択されたのは1955年のダートマスカレッジにおいてでした。ジョン・マッカーシーとマービン・ミンスキーという二人のコンピュータ・サイエンティストが立ち上げた共同研究計画のテーマが「機械には思考能力はあるか」だったのです。その当時この分野の第一人者は衆目の一致するところノーバート・ウィーナーでした。「サイバネティクス」というのはこの天才が発明した術語です。でも、マッカーシー&ミンスキーはウィーナーをこのプロジェクトには招聘しませんでした。
「ウィーナーがすぐれた頭脳の持ち主であることは疑いようがなかった。問題はけんかっ早く、知ったかぶりをする人物で、研究プログラムに彼が参加すれば、ダートマスでの夏が悲惨なものになることは眼に見えていた」からです。(ケネス・クキエル、『人工知能への備えはできているか?』、Foreign Affairs Report, 2019, No.8)
ノーバート・ウィーナーは異論のない天才でしたけれど、チーム全体の知的パフォーマンスを上げることには適していなかった。そういう人には「席をはずしてもらう」という判断は実践的には「あり」だと思います。結果的に、アメリカでの人工知能研究はウィーナー抜きで(ウィーナーがいたらたぶん「そっち」には行かない方向に)進んでしまった。
僕はマッカーシー&ミンスキーの判断を支持する側です。
知的生産は集団的な営みだからです。共同作業なんです。成員のひとりひとりが手持ちの知的資源を公共の場に差し出して、全員がそれぞれの知恵と工夫で、公共の場に供託された知的資源を素材に新しいものを創り出す・・・。そして、その作物がもたらす恩恵は集団成員の全員が享受できる。そういう開放的で対話的な場を立ち上げられる人を僕は「知性的な人」とみなします。
本書での僕のフェミニズム批判も大筋ではこの原則に基づいています。
言うことの切れ味はやたらにいいんだけれど、断定的過ぎるせいで、同意するか、拒絶するかの二者択一しか許されないというタイプの論者に対しては、僕はあまり好意的ではありません。逆に、言うことは独創的だけれど、自説以外の立場との対話の回路をきちんと確保してくれているオープンマインデッドな論者に対しては、僕はつねに深い敬意と信頼を寄せています。
どんな社会理論もそれを単体で取り出して、その適否や真偽について「最終的決定」を下そうとすることにはあまり意味がないと僕は思います(手間と時間がかかり過ぎます)。そういう煩瑣な議論に入り込むよりは、その理論がどういう歴史的文脈をたどって形成されてきたのか、それによってどのような新しい問題群が前景化・可視化されたのか、それとの対話によって、どのような新しい理説が生まれ出たのか・・・というふうな広々としたスパンの中での、当該理論の豊饒性・多産性を評価した方が思想史研究的には有意義なんじゃないかなと僕は思います。
そういう基準を当てはめてみると、フェミニズムの諸説のうち、たくさんの「子孫」を残したものもあるし、「進化の袋小路」にはまりこんで枯死したものもある、ということが言えそうです。
本書では1970年代から90年代にかけてのフェミニズムの言語理論や記号論が取り上げられています。当時の欧米の過激なフェミニストたちがどんな学説を語っていたのか、その代表的なもののいくつかを本書では紹介しています。もちろん論争的な文脈での紹介ですから、中立的なプレゼンテーションとは言えませんけれど。
それでも、本書で取り上げた中では、リュス・イリガライの「女として書く」理論やクリスチーヌ・デルフィの階級的フェミニズムやジュリア・クリステヴァの「アブジェクシオン」論などは「袋小路」に入り込んでしまって、子孫を残せなかったことくらいはわかります。一方、ショシャ―ナ・フェルマンのフェミニズム文学論はたぶんいまでもアメリカの大学で文学研究で卒論を書く学生院生たちにとって必須の参考文献として読まれているんじゃないかと思います。
ここで扱われた諸説が世に出てから、ものによってはすでに半世紀が経ちました。どの理論が結果的に多産なものであったか、どの理論が後継者を得ることなく立ち枯れたかは歴史が教えてくれます。ですから、本書はフェミニズムについての一種の「ブックガイド」として読むことができるかと思います。訳者の朴先生がこの本を選んだ理由もそうなのかも知れません。
というのは、本書が扱っている70~90年代のフェミニズムの文化理論が、その時期、軍事政権下の思想弾圧と、それに抗う民主化闘争の渦中にあった韓国で優先的な知的関心の対象になるとは考えにくいですから。
きっと『寝ながら学べる構造主義』や『若者よマルクスを読もう』と同じように、「その頃に欧米で論争的なトピックであった学術的理説について、回顧的に一望俯瞰できる概説書」がいまの韓国ではそれなりのニーズがあるのかも知れません。
この本の扱っている論件はもう日本では学術的情報としては、ほとんど需要がなくなりましたけれど、このたびこうやって韓国の読者のために二度目のお勤めを果たすことができるようになりました。ずいぶん昔の書き物ですけれども、それがみなさんのお役に立てたのなら、書いた甲斐があったというものです。お手に取ってくださって、ありがとうございます。