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内田樹さんの「「週刊ポスト」問題について(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.757

「今ここでは何をしても誰にも咎められることがない」とわかった時に、人がどれほど利己的になるか、どれほど残酷になれるか、どれほど卑劣になれるか、私は経験的に知っている。そして、そういう局面でどうふるまったかを忘れない。それがその人間の「正味」の人間性だからである。

 

 

2019年9月5日の内田樹さんの論考「「週刊ポスト」問題について(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 これが第一に言いたいことである。第二に言いたいことは、実はもっと深刻である。

 それは「職を辞してまで言いたいこと」ではないにもかかわらず、そういう言葉が小学館のような老舗で、良識ある出版社の出版物で「ぺろっと」口から出てしまったということである。

 世の中には「職を賭しても言いたいこと」とは別に、「職を賭してまで言いたいわけではないが、職を賭さないで済むなら言ってみたいこと」というのがある。

 うっかり人前で口にすると品性知性を疑われるリスクがあるので、ふだんは呑み込んでおくびにも出さないのだが、「言っても平気だよ」という保証が与えられたら、言ってみたい。そういう言葉である。

 私は今の嫌韓言説は「それ」だと思っている。

 韓国政府と韓国国民については、いまどれほど非常識で、下品で、攻撃的なことを言っても「処罰されない」という楽観が広く日本社会に拡がっている。現に、周りをきょろきょろ見回してみたら、「ずいぶんひどいこと」を言ったり、書いたりしている人たちがいるけれど、別に処罰もされていないし、仕事も失っていないし、社会的威信に傷がついたようにも見えない。なんだ、そうか。いまはやってもいいんだ・・・そう思った人たちが「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」をぺらぺら語り出したのである。それが現在の嫌韓言説の実相であると私は思っている。

 

 日本人がこれほど集団的に卑劣にふるまうようになった責任はもちろん一義的には政府にある。

 政権末期に政治的浮揚力を得るために隣国に喧嘩を売ってみせるというのは凡庸な為政者が歴史上繰り返しやってきたことである(李明博も政権末期に竹島に上陸するパフォーマンスで支持率を回復したことがある)。外交上の悪手でありながら、そういう挑発が繰り返されたのは、有効だということが知られていたからである。

 隣国に喧嘩を売るというのは、長いスパンで考えると有害無益のふるまいだが、短期的に見ると政権支持率が一時的に回復する。だから、たとえ国益を損なっても、政治的延命を図りたい政治家がそうするのは冷徹なマキャヴェリズムの論理的帰結である。そこには一抹の論理性がないではない。

 だが、その尻馬に乗ってぺらぺら語り出される嫌韓言説には、そのような論理性がない。

 その非論理性が私にはむしろ恐ろしいのである。

 

 メディアが嫌韓に唱和する最大の理由は「売れる」とか「数字がとれる」ということだという説明がなされる。現に、嫌韓本や嫌韓雑誌の作り手たちに個人的に訊いてみると、ほぼ例外なく「こんな本、ほんとうは作りたくないんです。でも、売れるからしかたないんです」という言い訳を聞かされる。

「金が欲しいので、ほんとうはそう思っていないことを書く。金が要るので、ほんとうは支持していない政治的主張を本にする」というのは矛盾しているようだが、実は合理的な言明である。「金がすべてに優先する」というのはひとつの原則的立場だからである。「すべては金だ」で人生を首尾一貫させているなら、それはそれで整合的な生き方だと言えるだろう。

 だから、彼らは「ほんとうはイヤなんです」と言うことを通じて、「自分のふるまいには論理的整合性がある」と主張しているのである。たしかに、そういう要素もあるのかも知れない。そういうふうに「シニカル」にふるまっていると、ちょっと賢そうに見えると思っているのかも知れない。

 けれども、嫌韓言説をドライブしているのは、それほど「シニカル」で計算高い思考ではない。

 もっと、見苦しく、薄汚い心性である。

 彼らが嫌韓という看板を借りて口にしているのは、先ほど言った通り、「職を賭してまで言いたいというほどのことではないが、職を賭さないで済むなら、ちょっと言ってみたいこと」である。ふつうなら「非常識」で「下劣」で「見苦しい」とされるふるまいが、どうも今の言論環境では政府からもメディアからも司法からも公認されているらしい。だったら、この機会に自分にもそれを許してみよう。

 周りを見回したら、どれほど下品で攻撃的になっても、それが隣国への非難であったり、それを咎める「良識ある人たち」への罵倒であったりする限り、まったく検閲スルーであるように見える。だからこそ、彼らは抑圧された攻撃性と下品さを解発することにしたのである。「処罰されない」と思ったので精一杯下品で攻撃的になってみせたのである。

 だから、「処罰」がちらついた瞬間に、蜘蛛の子を散らすように消えてゆく。「処罰されないなら公言してみたいが、処罰されるくらいなら言わないで我慢する」ということである。

 だが、彼らが忘れていることがある。それは、人間の本性は「処罰されない」ことが保証されている環境でどうふるまうかによって可視化されるということである。

「今ここでは何をしても誰にも咎められることがない」とわかった時に、人がどれほど利己的になるか、どれほど残酷になれるか、どれほど卑劣になれるか、私は経験的に知っている。そして、そういう局面でどうふるまったかを忘れない。それがその人間の「正味」の人間性だからである。

 平時では穏やかで、ほとんど卑屈なように見えていた人間が、「何をしても咎められない」状況に身を置いた瞬間に別人になって、人を怒鳴りつけたり、恥をかかせたりという仕事にいきなり熱心になるということを私は何度も見て来た。「そういう人間」の数はみなさんが思っているよりずいぶん多い。そして、彼らがどれほど「ひどい人間」に変貌するかは、平時においてはまずわからないのである。

 だから、私は人間を簡単に「咎められない」環境に置かない方がいいと思っている。できるだけ、法律や常識や「世間の目」などが働いていて、簡単にはおのれの攻撃性や卑劣さを露出させることができない環境を整備する方がいいと思っている。

 

 今の日本は倫理的な「無秩序」状態になっている。

 倫理的にふるまう人(正確には「倫理的にふるまう人が一定数いないと社会は維持できない」ということを知っている人)を「かっこつけるんじゃねえよ」と冷笑することが批評的な態度だと勘違いしている人たちがすでに言論の場では過半を占めようとしている。

 このような無秩序がこのまま続くのかどうか、私にはわからない。

 

 続くなら日本にもう未来はないということしかわからない。