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この教科書は「軍国主義」を近代日本が進むべきだった道筋からの「逸脱」ととらえるのである。
2019年10月17日の内田樹さんの論考「「民主主義」解説(その3)」をご紹介する。
どおぞ。
今述べたような点は検閲を念頭に置いて読むことで、テクストがむしろ深みを増す箇所だと言ってよいだろう。執筆者たちを扼していた「1948年・敗戦国」という歴史的条件がいわばメタ・メッセージとしてこれらの言説の「読み方」を指示してくれる。
私がとりわけ興味深く読んだのは、第十二章の「日本における民主主義の歴史」である。それは、ここで執筆者はどうして日本には民主主義が健全に育つことがなく、軍国主義に屈したのかについて自己摘抉を試みているからである。
この章は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という福沢諭吉の言葉から始まる。そして、「明治初年の日本人の中には、このように民主主義の本質を深くつかんだ人があった。そうして、それらの人々が先頭に立って、民主主義の制度をうちたてようとする真剣な努力が続けられた」として、それ以後の近代日本における民主主義の発展と深化の歴史がたどられる。(283頁)
議会の草創期における政党の離合集散についての詳細な記述から、読者は明治の人々が文字通り試行錯誤のうちで日本の議会制民主主義を手作りしようとしていた悪戦の歴程を学ぶことができる。たしかに、この時期に日本人は輸入品ではなく、自分たちの手で、日本固有の民主主義を創り出そうとしていたのである。
近代日本のうちに民主主義の萌芽を見出そうとする執筆者たちの努力はとりわけ明治憲法制定についての記述で際立つ。そこにはこう書かれている。
「この憲法は『天皇の政治』というたてまえをくずさないかぎりで、なるべく国民の意志を政治の中に取り入れうるようにくふうしてある。立法も行政も司法も、形のうえでは、『天皇の政治』の一部分なのであるが、その実際の筋道は、やり方しだいでは、民主的に運用できるようになっていたのである。」(294頁)
苦しい言い方だけれど、「やり方しだいでは、民主的に運用できるようになっていた」というのは、GHQの検閲下で明治憲法について書かれた言葉としては許容限度ぎりぎりの評価と言うべきであろう。
明治憲法の「近代性・民主性」を強調する文言はほかにも見られる。
「『帝国議会』は、貴族院と衆議院とから成り、衆議院の議員はすべて国民の中から選挙された。(...)かくて、議会の賛成なしには国の政治を行うことは原則としてできないことになった。そのかぎりでは、国民の意志が政治のうえに反映する制度になっていたといってよい。」(294頁)
「天皇も、国務大臣の意見に基づかないでは政治を行うことができないようになっていたし、行政についての責任は国務大臣が負うべきものと定められていた。これは、政治の責任が天皇に及ぶことを避ける意味であったと同時に、天皇の専断によって専制的な政治が行われることを防ぐための同意でもあった。」(294頁)
限定的ではあったけれど、言論の自由、信教の自由も明治憲法では認められていたと執筆者は繰り返し主張する。「そういう点では、明治憲法の中にも相当に民主主義の精神が盛られていたということができる」とまで書いている(295頁)。
その「民主主義の精神」が日本社会に定着しなかったのは明治憲法には「民主主義の発達をおさえるようなところ」もかなり含まれており、「そういう方面を強めていけば、民主主義とはまったく反対の独裁政治を行うことも不可能ではないようなすきがあった」からである(295頁)。
運用次第では明治憲法下でも日本は民主主義的な国家となることができた、とここには書かれている。その先例はイギリスの王制に見出すことができる。イギリスは立憲君主制であり、国王には議会で決めた法律案に同意することを拒む権利が賦与されているが、その権利は1701年以来一度も行使されたことがない(75頁)。天皇制もそのように運用することは法理的には可能だったはずである。しかし、そうならなかった。独裁政治の侵入を許すような憲法の「すき」が存在したからである。
一つは「独立命令」「緊急勅令」という、法律によらず、議会の承認を経ずに法律と同じ効力をもった政令を発令する権限を天皇に賦与したことである。
もう一つは「統帥権の独立」である。憲法11条に定めた「天皇は陸海軍を統帥す」に基づき、戦略の決定、軍事作戦の立案、陸海軍の組織や人事にかかわるすべての権限が政府・議会の埒外で決定された。そして、統帥権の拡大解釈によって、軍縮条約締結や軍事予算編成への干渉、さらには産業統制、言論統制、思想統制までもが「統帥権」の名の下に軍によって専管されたのである。その結果、浜口雄幸はテロリストによって、犬養毅は海軍将校によって、ともに軍縮に手をつけようとして殺害された。
「武器を持って戦うことを職分とする軍人が、その武器をみだりに振るって、要路の政治家を次々と殺すことを始めるにいたっては、もはや民主政治もおしまいである」(307頁)
昭和6年の十月事件、三月事件、血盟団事件、五・一五事件から昭和11年の二・二六事件に至る一連のテロによって、日本の民主主義はその命脈を断たれた。
「かくて軍閥は、この機に乗じて日本の政治を動かす力を完全に獲得し、これに従う官僚中の指導的勢力は、ますます独裁的な制度を確立していった。政党はまったく無力となり、民意を代表するはずの議会も、有名無実の存在となった。そうして、勢いのきわまるところ、日華事変はついに太平洋戦争にまで拡大され、日本はまさに滅亡のふちにまでかりたてられていった。」(309頁)
この帝国戦争指導部に対する怒りと恨みには実感がこもっている。軍国主義に対する怒りはGHQに使嗾されなくても、本書の執筆者全員に共有されていたはずである。それゆえ、この教科書は「軍国主義」を近代日本が進むべきだった道筋からの「逸脱」ととらえるのである。そして、それを「のけて」、明治初期の福沢諭吉や中江兆民のひろびろとした開明的な民主主義思想と、今始まろうとしている戦後民主主義を直接に繋げようとするのである。そうすることによって、戦後の日本を、実はもともと民主主義的な素地のあった大日本帝国の正嫡として顕彰するという戦略をひそかに採択したのだと私は思う。