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なぜ私たちの社会は軍国主義者とそれに賛同する圧倒的多数の国民を生み出したのか?
2019年10月17日の内田樹さんの論考「「民主主義」解説(その4)」をご紹介する。
どおぞ。
これはすでに気づいた人がいるだろうけれど、司馬遼太郎の「司馬史観」と同型のものである。司馬遼太郎は明治維新から日露戦争までの40年、敗戦までの40年、戦後の40年に近代日本を三分割して、第二期に当たる昭和一桁から敗戦までの十数年を「のけて」、前後をつなぐという歴史観を披歴したことがある。
「その二〇年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇が生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期をこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる。」(司馬遼太郎、『この国のかたち』)。
「異胎・鬼胎」としての軍国主義を歴史から切除しさえすれば日本文化の連続性は回復できるという司馬遼太郎の歴史戦略は、多くの戦後日本人に歓迎された。それが歴史的なものの観方としてどれほど学術的検証に耐えうるものかは定かではないが、戦後の日本人たちがこの「物語」を愛したのは事実である。
立場は異なるけれど、本書を執筆した人々の心の中にも、「古き良き日本」と戦後日本を繋いで、そこに連続性を見出そうとする志向は、控えめな仕方ではあったにせよ、存在していたように思われる。その心情は掬すべきだと思う。
しかし、その作業をほんとうに誠実に履行しようとしたら、どうして日本人はある時点で民主主義を自力で育てることを止めて、軍国主義に魅入られるに任せたのかという重苦しく、つらい思想的・歴史的な問いを引き受けなければならない。
残念ながら、敗戦直後の日本人にはそのようなつらく不毛な作業を最優先するだけの余力はなかった。現に、「日本の前途には幾多の困難が横たわっている」のである(437頁)。「この狭い国土にこれだけの人口をかかえて、これからさき日本がはたして自活していけるかどうか」(411頁)さえおぼつかない時代だったのである。ここでいう「国として」も「人間として」も、文字通り「統治機構が崩壊しない」「飢え死にしない」という切迫した意味で使われている言葉だということを忘れてはいけない。食管法を遵守して、配給食糧のみを食べていた山口判事が餓死したのは47年の10月のことである。
とりあえず「これからの日本にとっては、民主主義になりきる以外に、国として立ってゆく道はない。これからの日本人としては、民主主義をわがものとする以外に、人間として生きてゆく道はない。それはポツダム宣言を受諾したとき以来の堅い約束である。」(4頁)
民主主義国になるということは、この時点では、ポツダム宣言の「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」という厳格な条項を履行するということである。とはいえ、日本人には権利上も事実上も、「除去」を履行する実力はない。だから、「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力」たる軍国主義者は「永久に除去」されるものと決まったけれど、誰が除去され、誰が除去されないのか、それはいかなる基準によって判定されるのかは占領軍の専管事項に委ねられた。そうである以上、日本人にとって「なぜ私たちの社会は軍国主義者とそれに賛同する圧倒的多数の国民を生み出したのか?」という問いは喫緊のものではありえなかったのである。考えても仕方がないし、そもそも考える権利を与えられていないのである。だから、日本人はそれについて考えるのを止めた。
なぜ日本人は民主主義を育てるのを止めて、軍国主義に走ったのか。ほんとうは「民主主義の教科書」はそれを柱にして書かれるべきだった。そのことは執筆者たちにもわかっていたと思う。けれども、上のような理由によって、その法制史的・思想史的主題は忌避された。そしてその代わりに、明治大正までの日本と、戦後日本は「心」で繋がっているという不思議なレトリックが採用されることになった。戦後民主主義を讃えながら、本書では、それは制度の問題ではなく、心の問題だということが強調されているのである。
「では、民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは、政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの表われであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。」(3頁)
さらっと読み飛ばしてしまいそうだけれど、まさにこの命題からこの本は書き始められているのである。民主主義は制度ではない、それは心だ、と。いや、そういう考え方も民主主義についての一つの考え方かも知れないけれど、それはあくまで一つの考え方に過ぎない。デモクラシーは心の問題であると断定したら、「それは違う」と言い出す人がいくらもいるだろう。カントなら「違う」と言うだろうし、プラトンも「違う」と言うだろう。でも、この本はそういうかなり偏った定義から話を始めているのである。民主主義は制度にではなく、心に宿る。そうだとすると、まったく統治モデルが違う国でも、どちらも心においては民主主義であるということがありうる。
国ごとに統治のかたちがどれほど変わっても、「その根本をなしている精神は、いつになっても、どこへ行っても変わることはない。国によって民主主義が違うように思うのは、その外形だけを見ているからである。(...)民主主義の本質は、常に変わることのない根本精神なのである。したがって、民主主義の本質について、中心的な問題となるのは、その外形がどの種類かということではなくて、そこにどの程度の精神が含まれているかということなのである。」(20頁)
これは黙って読み通すことのできない文言である。「いつになっても、どこへ行っても」とはどういうことか。おそらくここで執筆者は「明治大正期の大日本帝国」にも、制度的には不備であったとしても、民主主義の「根本精神」は存在したと言いたいのだ。
しかし、過去の日本に存在した萌芽的な民主主義「精神」の正系として戦後日本の民主主義「精神」を位置づけるというような文言をGHQが許可するはずがないことは分かっていた。だから、執筆者たちは「いつになっても、どこへ行っても」民主主義の精神のあるところは民主主義的な社会なのだと書く他なかったのである。
その三年前まで人々が喧しく呼号していた「國體の護持」という空語を忌避しつつなお日本社会と文化の連続性を顕彰し、敗戦国民の矜持を高めようとすれば、このような言葉づかいを選ぶしかなかったのだ。
誤解して欲しくないけれど、私はこの「屈曲」を批判しているわけではない。この本を書いた人たちはすばらしい仕事をしたと思う。おそらくは「一億総懺悔」と称して過去の日本のすべての制度文物を「歴史のごみ箱」に放り込んで、新しい政治体制とイデオロギーに適応しようとしている世渡り上手の同時代人を苦々しくみつめながら、敗戦の瓦礫の中から、明治以降の先人たちの業績のうち残すべきものを掘り出して、それを守ろうとしたのである。敗戦の苦しみの中で、占領軍の査定的なまなざしの下で、本書の執筆者たちは戦前の日本と戦後の日本を架橋して、戦争で切断された国民的アイデンティティーを再生しようとして「細い一筋の理性の綱」を求めたのである。このような先人を持ったことを私は誇りに思う。