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『四つの署名』の水上追跡場面がシャーロック・ホームズの数ある活劇シーンの中で屈指のものであるのは、テムズ川を波しぶきを上げて疾走する一隻の汽艇とその黄色い探照灯が届く範囲だけがかろうじて文明と理性の及ぶ圏域であり、その外側には暗闇と悪臭と汚泥と犯罪の「無縁の地」が広がっているという構図の鮮やかさのせいである。
2019年10月24日の内田樹さんの論考「海民と天皇」(その6)をご紹介する。
どおぞ。
■ おわりに:テムズ川についての二つのエピソード
『四つの署名』でシャーロック・ホームズは犯人を追ってロンドン市内を走り、最後にテムズ河岸に至る。犯人はそこから船で逃亡したのだ。だが、一艘の汽艇をテムズ流域から探し出すのは不可能に近い。船の外見もわからず、両岸のどこの桟橋に停泊したかもわからず、「橋から下は何マイルというもの、そこらじゅう桟橋だらけで、まるで手がつけられやしない」とホームズを嘆かせる。(サー・アーサー・コナン・ドイル、『四つの署名』、延原謙訳、新潮文庫、1953年)
それに河岸で水上交通に携わる人々は部外者が入り込むことを嫌った。河岸の出来事について何か知りたがっていると気取られると「あの手合いは牡蠣のように口をつぐんでしまう」のだ。ロンドン警察も、ホームズ子飼いのベイカー街の少年探偵たちも河岸に入り込んで情報をとることができない。結局はホームズが老海員の変装で河岸を探偵して、インサイダーのふりをすることでようやく汽艇についての情報をつかむ。
それからスコットランドヤードと盗賊たちの汽艇の競走が始まる。ロンドン塔の下から海に向かって追跡は始まり、アイル・オブ・ドッグズの鼻先を回り、ウーリッジのあたりで追いつくけれど、盗賊たちは右岸へ接岸して逃れようとする。「そのあたりの河岸は一面に荒涼たる沼地で、人気はなく、よどんだ汚水と腐れかかった汚物のうえに、こうこうたる月が照りわたっていた。」
グーグルマップで見ると、今もそのあたりには汚れた遊水地と埋め立て地に広がる野原以外には目立った建物もない(刑務所があるくらいだ)。ホームズの時代にはどれほど荒涼とした場所だったのだろう。ロンドンを出た犯人たちが向かうのはテムズ下流のグレイブズエンドあたりだろうとホームズは推理していたが、Gravesend とはまさに「墓場の果て」の意である。
19世紀のテムズ川は生活排水、生ごみ、糞尿、工業用排水、動物の死骸まであらゆる汚物が流れ込んだ「世界一汚い川」であった。その下流の湿地帯のどこかに逃げ込んでしまえば、もう警察の捜査の及ぶところではなかったのである。
『四つの署名』の水上追跡場面がシャーロック・ホームズの数ある活劇シーンの中で屈指のものであるのは、テムズ川を波しぶきを上げて疾走する一隻の汽艇とその黄色い探照灯が届く範囲だけがかろうじて文明と理性の及ぶ圏域であり、その外側には暗闇と悪臭と汚泥と犯罪の「無縁の地」が広がっているという構図の鮮やかさのせいである。
今の皇太子である徳仁親王はオックスフォードに留学したときにテムズ川の水上交通を研究テーマに選んだ。なぜそのような特殊な研究主題を選んだのかについて親王はエッセイの中でこう書かれている。
「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる『道』についてたいへん興味があった。」(徳仁親王、『テムズとともに』、学習院教養新書、1993年、149頁)
高校時代まで皇太子の関心は近世の街道と宿駅に向けられていたが、大学史学科に籍を置いてからは、「律令制のもとで整えられた古代の駅制と幕藩体制下で整備された近世の宿駅制との間にあって、まだ十分に研究の及んでいない中世の交通制度に関心が移ってきた」のである(同書、150頁)。
律令期の七道と近世の五街道の間の中世の交通制度について「まだ十分に研究が及んでいない」ことを奇貨として中世の道と宿駅の歴史的意義を問い直したのは網野善彦である。そして、徳仁親王が「道」の研究のために学習院史学科に進んだ1978年は、まさに網野の『無縁・公界・楽』が刊行された年であった。徳仁親王の研究関心が網野の本と無関係であったと考えることはむずかしい。
徳仁親王が就いたオックスフォードの指導教官マサイアス教授は、最初にこれまでの研究成果として、日本の交通史を概観するレポートの提出を言い渡した。親王が古代から江戸時代までの交通制度について書き上げた概論を一読した教授から「自分の意見をもう少し書くようにと言われ、なぜ日本では馬車が発達しなかったのかを少し考えるように指摘をされ」た親王は「早くもこれから先が大変だなと思わざるをえなかった」(同書、153頁)と慨嘆した。
なぜ日本では馬車が発達しなかったのか、これはある意味で研究動機の核心を衝いた問いであった。答えはもちろん「水上交通が発達していたから」である。ではなぜ日本列島では水上交通が発達していたのか。それは海民と天皇の間に深い結びつきがあったからである。けれども、親王は当事者としては「自分の意見」を自制せざるを得ない。天皇と海民のかかわりには触れずに、日本の水上交通の特異性をイギリスの歴史学者に説明する作業を思いやって、親王はおそらく慨嘆したのである。
徳仁親王の研究内容について触れる紙数はないので、親王がテムズの語源について書かれた印象的な一節を引いてこのとりとめのない論考を終わらせたいと思う。
「なお、テムズ(Thames)の語源について、マリ・プリチャード、ハンフリー・カーペンター共著'A Thames Companion'では、『暗い』を意味するTemeをあげている。ケルト人は河川に対する信仰をもとに、沼沢地も多く近づきにくい未開発のこの河川を『暗い』、『神秘的』であると受け止め、この印象がその後の諸民族にも引き継がれて、『テムズ川』と呼ばれたのであろうと推定している。まことに興味深い説である。」(同書、156-157頁)