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もし、子供たちの中で知性が活発に働くことを教えようとしているのだとしたら、子供たちに教えるべきことは「知性はジャンプする」ということだと僕は思います。
2020年1月6日の内田樹さんの論考「国語教育について」(その4)をご紹介する。
どおぞ。
「論理国語」を別建てにするというのでしたら、「論理的に思考するとはどういうことか」ということについてこの程度のことは考えて欲しいと思います。過去の卓越した知性がどのように論理的に思考してきたのか、それについて一秒でいいから考えてから「論理」というような言葉は口にして欲しい。「論理」という語を生徒会規約と議事録を読んで年度内に生徒総会の開催が可能かどうかを「推理」するというような知性の行使について使うのは、言葉の誤用だと僕は思います。そんな「推理」のためには論理的知性なんか要らないから。論理的知性というのは、「跳ぶ」能力のことだからです。
レヴィ=ストロースもやはり「20世紀で最も頭のいい人」の中の一人だと僕は思っています。レヴィ=ストロースも論理的に助走してから「跳ぶ」人です。
『悲しき熱帯』は彼がブラジルのマト・グロッソのインディオたちの生活を観察したフィールドワークですけれど、レヴィ=ストロースは観察しているうちに、文化人類学者である自分自身の思考形式、自分自身の論理形式そのものが実はヨーロッパに固有の「民族誌的偏見」ではないのか、という疑問に取り憑かれます。この世界には、自分たちがしているのとは違う論理形式で思考している人がいるのではないか・・・と思い始める。インディオたちは、未開人だから、文明人であるヨーロッパ人よりも幼児的な仕方で思考をしているので、いずれ「開花」されると、ヨーロッパ人と同じように思考するようになる。というのが進化論以後の「ふつうの考え方」でしたが、レヴィ=ストロースはそれを退けます。彼らの理解しがたい様々な制度や習慣は「幼児的」であるのではなく、われわれとはまったく異なる独自の体系と論理をそなえてすでに完成された一つの世界理解の方法に基づくものではないのか。彼らの「野生の思考」もまた人間が達成した堂々たる文明史的な到達点の一つであり、その知的な尊厳・威信に対して、われわれはそれにふさわしい敬意を示すべきではないのか、と。
観察事例を説明できる仮説を論理的に求めているうちに、「自分が現に思考しているプロセスそのものが一個の民族誌的偏見ではないのか」という懐疑にとらえられる。現実にレヴィ=ストロースが観察したことを論理的につきつめてゆくと、それが導くコロラリーは「われわれヨーロッパ人が『論理的』だと思っている思考の仕方とは別の仕方でも人間は論理的であり得る」というものでした。おのれの論理性の極限において、おのれの論理性の限界に出会い、そこから翻って、おのれの思考を律している臆断そのものを可視化してゆく。レヴィ=ストロースはそういうアクロバティックなことをしてみせたわけです。僕はこういうものを真の論理性と呼びたいと思います。
レヴィ=ストロースは目の前の事象を説明しようとして、手持ちの論理を限界まで駆使した結果、この「手持ちの論理」そのものが、一般性を要求することのできない、地域限定・時代限定のものではないかという懐疑に囚われました。
フロイトのタナトスにしても、マルクスの階級闘争にしても、マックス・ウェーバーの資本主義の精神にしても、レヴィ・ストロースの「野生の思考」にしても、ある思考の枠組みの中から出発して、論理的な手順をていねいに踏んで、そして、自分たちを規制している思考の見えざる枠組み、自らの思考を律している臆断を可視化する。真の知性の働きはそこにあると思います。
子供たちに学校教育を通じて何を教えようとしているのか。もし、子供たちの中で知性が活発に働くことを教えようとしているのだとしたら、子供たちに教えるべきことは「知性はジャンプする」ということだと僕は思います。
しかし、実際に、子供たちも「ジャンプ」しているのです。それは子供を観察しているとわかります。子供たちを自然の中に連れていって、そこにしばらく放置していると、わかる。子供たちの知性は「論理的に」活動し始めるのが観察されます。
養老孟司先生が、「子供たちなんて学校で教育なんかすることないんだ。自然の中に放り込んどきゃいい」と割と乱暴なことをおっしゃいますけれども、これは一理あるのです。子供たちを自然の中に連れて行って、ゲーム機や携帯やマンガや玩具の類を全部取り上げてしまう。何も持たせずに、ぽんと自然の中に放り出しておく。するとどうなるか。子供たちは死ぬほど退屈する。まず退屈するというのがとてもたいせつなのです。
退屈しのぎに、子供たちは必ず何かを観察し始めます。ほうっておいても、そうなります。退屈しているんだけれど、手元に退屈をまぎらわすための道具が何もない。そんなとき、人間は何かをぼんやり観察し始めます。空の雲を見たり、鳥の声を聴いたり、虫を眺めたり、川の流れを見たり、海の打ち寄せる波を見たり。何か自分の好みの対象を選んで、それをぼんやりと観察し始める。
最初のうちは、ただぼーっと見ているだけです。自然をぼんやりと観察している。でも、そのうち、何かの弾みで、子供の目がきらりとする瞬間がある。それは「パターン」を発見したときです。
自分の前に展開しているランダムな自然現象の背後に、実は法則性があるのではないか・・・というアイディアが到来したときに、子供の目がきらりと光る。そういうものなんです。一見するとランダムに生起する事象の背後に数理的な秩序があるのではないか、という直感が到来する。雲の動きでも、虫の動きでも、波の動きでも・・・ずっと観察しているうちに、そこに繰り返しある「パターン」が再帰しているのではないかというアイディアがふと浮かんでくる。そうするといきなり集中力が高まる。もし自分の仮説が正しければ、「次はこういう現象が起きるはずだ」という未来予測が立つからです。果たして、その予測通りの現実が出来するかどうか・・・子供だって、そのときは息を詰めるようにして、次に起きることに意識を集中させます。
うちの娘は、子供の頃、とても植物が大好きでした。小学校はすぐ近くで、子供の足で歩いても5分もかからない一本道でした。学校が終わって、友達が遊びにきて、うちの娘は、るんちゃんというのですけれど、「るんちゃん、いますか?」と訊くから「え、まだ帰ってないよ」と言うと「おかしいなあ。一緒に出たのに」と言う。自分たちは一度家に帰って、ランドセルを置いて、それからうちに遊びに来ているのに、学校から一番近いうちの娘だけがまだ帰っていない。
気になって、とことこ坂道を降りて学校の校門の方に向かったら、坂の途中にいました。しゃがみ込んでいる。何をやっているのだろうと思って、遠くから見ていたら、道ばたの雑草をじっと見ているのです。ずいぶん長いこと見ていて、そのうちに、「ふう」とため息をついて、立ち上がって、歩き出す。でも、また数歩歩いて違う雑草を見付けると、立ち止まって、座り込んで、また観察を始める。
遠くから娘の姿を見ながら、ちょっと声をかけるのがはばかられました。それくらいに深く観察対象にのめり込んでいたから。きっと、何か植物学的な仮説を立てて、それを実物に即して検証していたところなんだと思います。ある法則性を発見したことに興奮して、友だちと学校が終わったら遊ぼうねと約束していたことも忘れて、植物の観察にのめりこんでいた。そういうものだと思います。
自然の前に子供を長時間放置しておくと、いずれ何かを選んで観察し始める。そして、パターンや法則性を発見したと思うと深く対象に沈潜してゆく。自分で仮説を立てて、その仮説を実験的に検証しているときの顔は、それが子供でも、ノーベル賞級のアイデアを思いついて実験で検証しているときの科学者の顔とあまり変わらないんじゃないかと思います。たぶんそれこそ人間が最も知的に高揚するときだから。ふと思いついた仮説が現実に適用できるかどうか、実験してその結果を待っているときの高揚感にまさるものはありません。