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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その4) ☆ あさもりのりひこ No.822

「大衆社会」とは何か?

 それは成員たちがもっぱら「群」をなし、「隣の人間と同じようであること」を指向して判断し行動するような社会のことである。そこでは、群がある方向に向かえば、全員が大勢に従って、批判も懐疑もなしに、同じ方向に雪崩打つ。そこでは、ひとびとは自立的な個としてではなく、アモルファスで均質的なmasse(塊)をなしている。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

6・大衆社会の道徳

 功利主義者たちとニーチェを隔てる最大の状況的な差異は、前者が「市民社会」における、ニーチェが「大衆社会」における倫理について語ったということである。ニーチェの既成道徳批判は、つきるところ、「大衆社会において倫理的であるとはどういうことか」という、それまでの思想家が誰一人自らに問いかけることのなかった問いを引き受けたことにある。当然のことだが、それまで人類は「大衆社会」というものを知らなかったからである。

「大衆社会」とは何か?

 それは成員たちがもっぱら「群」をなし、「隣の人間と同じようであること」を指向して判断し行動するような社会のことである。そこでは、群がある方向に向かえば、全員が大勢に従って、批判も懐疑もなしに、同じ方向に雪崩打つ。そこでは、ひとびとは自立的な個としてではなく、アモルファスで均質的なmasse(塊)をなしている。ニーチェ以前の思想家には切実な論件ではなかったこのような人間の集合的なあり方のもたらす災厄をニーチェはきわめて悲観的に予見した。

「群」をなして行動する人々をニーチェは「畜群」(Herde)と名づける。畜群の行動基準は「隣の人と同じことをする」「大勢に従う」ということである。集団から突出すること、特異であること、卓越していること、畜群的本能はそれを嫌う。畜群の理想は、「みんな同じ」という状態である。それが彼らの行動規範、「畜群的道徳」となる。

「今日のヨーロッパにおける道徳なるものは、畜群的道徳である。」(9)

 畜群的道徳が目指すのは、なによりも社会の平準化・等質化である。

「万人が平等であること」こそ畜群の輝く理想である。だから彼らは「心をひとつにして、あらゆる特殊な要求、あらゆる特権や優先権に対して頑強に抵抗する」し、「ひとしく同苦(同情)の宗教を信奉し、およそ感じ、生き、悩むかぎりのすべてのものに同情する」。(10)

 こうしてひとびとは、互いに共感し合い、理解し合い、慰め合い、苦しみも喜びもひとしく分かち合いつつ、相互を隔て差異化する輪郭を失って、不定形的でねばねばしたマッスのうちに溶け込んで行く。もはやその成員たちが区別しがたいほどに等質的な集団を形成することを、畜群たちは「人間における極頂、人間の達し得た絶頂、未来の唯一の希望、現在のものたちにとっての慰めの具、過去のあらゆる罪過からの偉大な解放」と考えている。

 畜群的道徳もある意味では「功利的」である。けれども、それはホッブスやロックが考えていたような功利とは別種の功利である。「功利主義的」な道徳観によれば、個人は(慈善や謙譲や寛容や禁欲などの)「道徳的」行為をすることによってこうむる短期的な不利益と、結果的に獲得される長期的利益を「計量して」行為を決定する。この理論は、行為の決定者は、その行為が得か損かについて算盤をはじくことができる程度の知的能力をもっていることを前提としている。だから、仮にある一人の判断が集団成員の大多数の判断と一致したとしても、それは集団の成員全員が、彼と同程度に利己的であり、彼と同程度に計算高いというにすぎず、判断はあくまで個人の資格において、個人の責任において、主体的に下されたのである。

 しかるに、このような功利主義的判断は畜群には不可能である。なぜなら畜群とは(その定義からして)主体的には何一つ判断できないからである。畜群の関心はもっぱら「集団の保持」「集団の存続」に向けられている。つまり群をなし続けていること、いつまでも等質の集団のまま、塊として運動すること、それが最優先の目標なのである。そのためには全員がその隣人と同じ判断をし、同じ行動をすることが必要である。功利的な判断の結果がたまたま全員一致するのではなく、全員一致することそれ自体が自己目的化するのである。そのとき、ひとつの「倒錯」が発生する。畜群においては、ある行為が道徳的であるか不道徳的かについての判断は、その行為に内在する道徳的価値でもなく、その行為が行為者本人にもたらすはずの利益の多寡でもなく、「ほかの人々と同じであるか否か」によって決定されるからである。

 外部から到来する命令に集団的に屈服させられ、畜群化されるという事態は歴史的にはこれまでもいくらもあった。しかし、それと近代の畜群のあり方は似ているようで決定的に違っている。

「人間が存在するかぎり、あらゆる時代に人間畜群も存在したし(血族共同体、共同団体、部族、民族、国家、教会)、またつねに少数の命令者に対して、非常に多くの服従者が存在した。(・・・)今ではすべての人間が、一種の形式的良心として『汝すべし』と命ずるものに対する欲求を生まれながらに持っている。この欲求は満足を求めるし、その形式をある内容で満たそうとする。(・・・)それはだれかれとない命令者-両親なり教師なり法律なり階級的偏見なり世論なり-から吹き込まれるものを受け入れる。」(11)

 単に強権によって屈服させられ、同一の行動を強制されるだけではひとは「奴隷」(Sklave)にはならない。「奴隷」とは、強権に屈服するだけでなく、屈服することを幸福と感じ、そこに快楽を見出すようなもののことである。外部から強いられた思念を自分の内部からわきあがってきた自分自身の思念であるとシステマティックに取り違えるようなもののことである。

ニーチェによれば、この服従への欲求には歴史的淵源がある。ある特殊な民族集団とそれを母胎とする宗教がこのメンタリティを育み、それをヨーロッパ世界に持ち込んだのだ、とニーチェは論断する。

「ユダヤ人とともに道徳上の奴隷一揆は始まった」とニーチェは書く。

「ユダヤ人-タキトゥスや全古代世界のひとびとがいうところでは、『奴隷として生まれた民族』、また彼ら自身が言いもし信じもしたところでは『民族の中の選ばれた民族』-このユダヤ人が、価値の逆倒というあの奇跡劇をやってのけたのだ。(・・・)彼らの預言者たちは、〈富〉と〈背神〉と〈悪〉と〈暴戻〉と〈肉欲〉というものを一つに融け合わせてしまい、かくてはじめて〈この世〉(世界)という言葉を汚辱の言葉にしてしまった。価値のこの逆倒という点にユダヤ民族の意義がある。この民族とともに道徳における奴隷一揆が始まったのだ。」(12)

 ニーチェのいう「奴隷一揆」とは、奴隷たちが支配者に抵抗することを意味するのではない。そうではなくて「奴隷である」という「事実」を「奴隷であるのは幸福であり、勝利である。だから努めて奴隷にならなければならない」という「当為」に読み替える「倒錯」を指すのである。「弱者」であり、それゆえに私的な欲望の実現可能性を阻まれたものが、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決意であるかのようにふるまい、「弱者であることが正統的な生き方である」と宣言したときに「価値の逆転」が始まる。

「惨めなるもののみが善きものである。貧しきもの、力なきもの、卑しきもののみが善きものである。悩めるもの、乏しきもの、病めるもの、醜きものこそ唯一の敬虔なるものであり、唯一の神に幸いなるものであって、彼らのためにのみ至福はある。」(13)

 だから、ニーチェによればキリストの教えとはユダヤのロジックを全面展開したものに他ならない。

「愛と福音の化身としてのこのナザレのイエス、貧しきもの、病めるもの、罪あるものに至福と勝利をもたらすこの『救世主』-彼こそは最も薄気味の悪い、最も抵抗しがたいかたちの誘惑ではなかったか。(・・・)この『救世主』、このイスラエルの疑似敵対者、似非解体者の迂路によってこそ、イスラエルはその崇高な復讐欲の最後の目標に到達したのではなかったか。」(14)

 

【引用出典】

 (9) ニーチェ、『善悪の彼岸』(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、理想社、1967年、p 同書.164

(10) ニーチェ、『道徳の系譜』、(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、p. 165

(11) 同書、p.158

(12) 同書、p.155

(13) 同書、p.32

 

(14) 同書、p.34