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こうして、行動に際して、局外の規範に準拠するものと、内発的な動機に身を任せるものという二分法によって、ニーチェは人間を「畜群」と「貴族」に二分し、それぞれのなすところを「悪い行為」と「善い行為」と名づける。行為の道徳性の判定は「何をなすか」ではなく、「何ものであるか」というかたちで立てられることになる。
2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その5)をご紹介する。
どおぞ。
7・「超人」道徳
ユダヤ=キリスト教に始まる「奴隷道徳」の根元的なメンタリティをニーチェは「遺恨(ressentiment)」と呼ぶ。「ルサンチマン」とは「遺恨・反感」を意味するフランス語であるが、語源は「反応する」(ressentir)という動詞である。「奴隷」は自己に先行し、自己よりも強大な、自己外部のなにものかによる「働きかけ」に対して「反応する」というかたちで存在する。「リアクション」というのが「奴隷」の行動元型なのである。
「奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対境、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、それは一般に行動を起こすための外的刺激を必要とする。奴隷道徳の行動は根本的に反動である。」(15)
「奴隷」は「外界」を必要とする。「奴隷精神」とは「外界」から到来する「外的刺激」によって引き起こされた「反応」を、自分の「内面」から自然発生的に生まれ出た「本性の発露」であるというふうにシステマティックに錯認する知の構造のことである。この論断は暴力的な表現にもかかわらず、人間の存在論的構造についての深い洞見を含んでいることを私たちは認めなければならない。ここでニーチェはこんにちラカン派精神分析理論が「私」について教えていることとほとんど同じことを語っているからである。
ラカン派の理説によれば、人間は発生的には無力で、根拠の不確かな存在として出発する。「私」は「私」の起源について厳密に自己言及することができない。(「私」は「私の誕生」に主体としては立ち会っていないからだ。)「私」は「私」がいまここに存在していることの意味や根拠を「私」自身で構築した論理や言語では語りきることができない。「私」とは、ある精神分析家の卓抜な比喩を借りて言えば、自分の髪の毛をつかんで、おのれ自身を中空に吊り上げるような仕方でしか存在できないのである。
この根源的に無力な「私」は、あまりに無力なので、「おのれが無力である」という事実を受け容れることが出来ない。それゆえ、人間はおのれの無力を、自分の「外界」にあって「自分より強大なもの」の干渉の結果として説明しようとする。「私の外部」にある「私より強大なる者」が私の十全な自己認識や自己実現を妨害しているという「物語」を作り出すのである。「私」が弱いのではなく、「強大なる者」が強すぎるのだ。そのようにして私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。「父」はそのような仕方で、「私」の弱さを含めた「私」をまるごと正当化し、根拠づける神話的な機能であり、それを私たちは場合に応じて「神」と呼んだり、「絶対精神」と呼んだり、「超在」と呼んだり、「歴史を貫く鉄の法則」と呼んだりするのである。
このラカン派の説明はそのままニーチェの「奴隷」精神の構造に適用できる。「奴隷」は「おのれが無力である」という事実を隠蔽しつつ説明するために、「強大なる父」の幻影を外界に作り出す。そして、この「父」のうちにおのれを教導し、おのれを救済するものを見出そうとするのである。そのときにおのれの無力さは一気に「父」による救霊をけなげに待望する「子羊の無垢性」に読み替えられる。
こんにち、私たちは精神分析によるこのような人間の思考定型にかかわる説明を学術的には有効なものとして受け入れている。私たちの了解するところでは、ニーチェのいう「奴隷」とは人間という種に固有の存在論的構造なのである。フロイトの言葉を借りるならば、「私たちは全員が神経症患者」なのであり、それをニーチェ的な語法で言い換えれば、「私たちは全員が奴隷なのだ」ということになる。
だが、ニーチェはそれを認めない。彼は「おのれをおのれの力では根拠づけられない人間」の対極にあえて「おのれをおのれの力で根拠づけることのできる人間」という仮説的存在を想定するからである。この不可能な仮説的存在をニーチェはさしあたり「貴族」と名づける。ここからニーチェの思想的迷走は始まる。
「貴族」の属性はすべて「奴隷」と反転している。「貴族」とはなによりも「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」のことである。「貴族」の行動は熟慮の末に導き出されたものではないし、外部から強要された命令や戒律への盲従でもない。「貴族」とは、なによりもまず、イノセントに、直接的に、「自然発生的」に、彼自身の真の「内部」からこみあげる衝動に身を任せて行動するもののことである。
「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。(・・・)すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずる。(・・・)それは自発的に行動し、成長する。」(16)
この貴族=騎士的存在者は「われら高貴なるもの、われら善きもの、われら美しきもの、われら幸いなるもの」という根源的な自己肯定から出発する。無反省的な自己肯定に立つがゆえに、当然にもこの貴族的・騎士的存在は、無思慮で単純で残忍で野蛮である。
「ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の貴族、ホメーロスの英雄、スカンジナビアの海賊」といった歴史上の貴族的種族は「通ってきたすべての足跡に『蛮人』の概念を遺した者たち」(17)
彼らは「危険に向かって」「敵に向かって」「無分別に突進」する。そして「憤怒・愛・畏敬・感謝・復讐の熱狂的な激発」によってこの「高貴な魂」たちはおのれの同類を認知するだろう。
ニーチェはこの「高貴な野蛮人」こそが「人間」の本来的なあり方だと考えた。彼らの行為は、いかなる局外者の介入もなしに、自然発生的に彼らの内部からのほとばしり出るエネルギーが具現化したものである。彼らの衝動は「奴隷」のそれのように「内面化された外部」ではなく、純粋な内部を淵源としている。その純粋性、真正性は、彼らの行為のすべてを浄化し、正当化するだろう。こうして、ニーチェは行為の正邪理非は、その行為が「自発的であるか」「反応的であるか」によって決すべきであるとするきわめてユニークな倫理観にたどりつく。
「高貴な人間」が自発的に行うこと、それが「高貴な行為」なのであり、「善い人間」の内部から止めがたく奔出するもの、それが「道徳的な行為」なのである。
「『よい』のは『よい人間』自身だった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を『よい』と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。(・・・)上位の支配種族が下位の種族、すなわち『下層民』に対して持つあの持続的・支配的な全体感情と根本感情、これが『よい』と『わるい』との対立の起源なのだ。」(18)
行為に外在する汎通的な道徳は存在しない。「主人」(すなわち貴族的=騎士的存在者)がなすことはすべて「善い」ことであり、「奴隷」(すなわち畜群的存在者)がなすことはすべて「悪い」ことである。問題は「誰が」その行為をするかであって、「何をするか」ではない。同じ行為であっても「善い人間」がすれば「善い行為」であり、「悪い人間」がすれば「悪い行為」なのである。
「道徳的な価値表示はいつでもまず人間に対してつけられ、それが派生的に転用されていった末に、ようやく行為に対してつけられるようになった」のである。(19)
「問題はつねに、自分が何者であり、他の者は何者であるか、ということなのだ。(・・・)われわれは道徳を強制して、なによりもまず位階の原則の前に身を屈せしめなければならない。(・・・)かくしてついには道徳をして『ある者にとって正しいことは、他の者にとっても正しい』と言うのは不道徳であることを、はっきり分からせねばならない。」(20)
こうして、行動に際して、局外の規範に準拠するものと、内発的な動機に身を任せるものという二分法によって、ニーチェは人間を「畜群」と「貴族」に二分し、それぞれのなすところを「悪い行為」と「善い行為」と名づける。行為の道徳性の判定は「何をなすか」ではなく、「何ものであるか」というかたちで立てられることになる。
【引用出典】
(15) ニーチェ、『道徳の系譜』、(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、p.37
(16) 同書、p.31
(17) 同書、p.42
(18) ニーチェ、『道徳の系譜』、木場深定訳、岩波書店、1940年、p.22-23
(19)『善悪の彼岸』、p.273
(20) 同書、p.203