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世俗の汚泥にまみれて、なお精神の貴族性を失わない人間に私たちはいかにして出会うことが出来るか、それがニーチェ以後の倫理の問いである。
2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その6)をご紹介する。
どおぞ。
では、「高貴なるもの」とは誰のことなのか?ここでニーチェの論理的迷走は深まる。なぜならニーチェが「高貴なるもの」を「当為」の語法で語ってしまうからである。
「およそ〈人間〉という型を高めることが、これまで貴族社会の仕事であった。-これからもつねにそうであるだろう。こういう社会は、人間と人間とのあいだの位階と価値差の長い階梯を信じ、何らかの意味での奴隷制度を必要とする。身分の差別がこりかたまって、支配階級が不断に隷従者や道具を眺め見下ろし、かくてまた不断に双方のあいだで服従と命令、抑圧と敬遠が行われることから生じるような〈距離の激情(pathos)〉がなかったならば、あの別のより秘密にみちた激情も決してうまれなかったであろう。それはすなわち、魂そのものの内部にたえず新たに距離を拡大しようとするあの熱望であり、いよいよ高い、いよいよ希有な、いよいよ遥遠な、いよいよ広闊な、いよいよ包括的な状態を形成しようとする熱望である。要するに、これこそは(・・・)絶えまなき、〈人間の自己超克〉の熱望である。」(21)
ここでのニーチェのロジックは一見してそれと分かるほどに危うい。さきにニーチェは貴族の起源を「勝ち誇った自己肯定」だと断定していた。しかし「勝ち誇った自己肯定」を自己の根拠とする人間が果たして「おのれを高める」というような向上心を持つものだろうか? おのれの「低さ」「卑しさ」を自覚したものだけが「おのれを高めよう」とする自己否定・自己超克を指向するのではなのか? ニーチェの「貴族」についての最初の定義を受け容れる限り、「向上心を備えた貴族」「人間の自己超克を熱望する貴族」というのは形容矛盾である。
同じ背理は『ツァラトゥストラ』にも見ることができる。なるほど、ニーチェはそこでたしかに「超人」を語っている。しかし、そこでも彼は「超人が何であるか」ではなく、「超人は何ではないか」しか語らない。
「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(・・・)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならない。」(22)
「超人」概念は「人間の超克」という「移行の当為」として語られる。あるいは「移行の当為」としてしか語られない。「超人」とは「人間を超えるなにものか」であるというよりは、「人間であることを苦痛であり恥辱であると感じる感受性、その状態から抜け出ようとする意志」のことである。超人とは「人間ではないもの」という否定形でのみ語られる記号であって、実体的な内容を持たない「超越への緊張」である。
「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である-深淵の上にかかる綱である。(・・・)人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落である、ということである。」(23)
ツァラトゥストラは結局「超人とは何か」という問いにはついに回答しない。彼はひたすら「人間とは何か」についてだけ語る。堕落の極にある現代人について火を吐くような熱弁を揮う。しかし「超人とは何か?」という問いはそのつど「人間とは何か?」という問いにすり換えられ、「高貴とは何か?」という問いはそのつど「卑賤なものとは何か?」という問いにすり換えられる。
このすり換えはニーチェのロジックの必然である。ニーチェは「自己超克」の動機を「より高いもの、より尊いものを指向する向上心」にではなく、「より低く、より卑しいものに対する嫌悪」のうちに求めているからである。貴族性とは高みをめざす指向ではなく、低く卑しく醜いものを激しく嫌悪し憎悪し破壊しようとする情熱、ニーチェのいう「距離のパトス」に他ならないからだ。
ここから不思議な結論が導かれる。人間が高貴な存在へと、超人へと高まってゆく推進力を確保するためには、彼に嫌悪を催させ、彼をそこから離れることを熱望させるような、忌まわしい存在が不可欠だということになるからである。貴族社会が存立するために「奴隷制度」が不可欠であったように、超人が存立するためには、畜群が不可欠である。おのれの「高さ」を意識するためには、絶えず参照対象としての「低きもの」にそばにいてもらわなければならないのだ。人間を高めるという向上の指向は、不可避的に人間の一部を「畜群」として選別し、有徴化し、固定化することを要請する。
超人「計画」にとってもっとも効率のよい体制は、ある人種が超歴史的、永遠的に「本来の賤民型」というものを体現している場合である。不変の参照項、「高さ」の観測定点としての「永遠に低いもの」がかたわらにいることは、おのれの「自己超克」の進み具合を計測するときにどれほど便利だろう! こうしてニーチェの超人道徳は、人類全体を「人種」に分類し、それぞれの遺伝的・生得的「本質」にしたがって、それが貴族人種か畜群人種かに分別するという暗鬱な作業に堕してゆくことになる。
「人間がその両親と祖先の固有の性質や偏愛を体内に宿していないということは金輪際ありえない。(・・・)もし両親についてそこばくのことが知られていたとすれば、その子について結論をくだすことがゆるされる。」(24)
「あらゆるヨーロッパおよび非ヨーロッパの奴隷階級の子孫たち、とりわけすべての先アーリア的住民の子孫たち。彼らこそ、人類の退歩を表しているものだ!」(25)
遺伝的に畜群であることを宿命づけられている(ユダヤ人に代表される)「先アーリア土着民」と遺伝的に支配者であることを宿命づけられている「アーリア系征服種族」は髪の色、肌の色、頭蓋の長短といった生物学的な差異によって客観的に識別される。世界史とはこの非アーリア種族とアーリア種族の2000年来の確執の歴史のことであり、この和解なき闘争は近代にいたって前者の圧倒的な増殖の前に、後者が全戦線で後退を強いられている危機的状況として展望される。
「すべては目に見えてユダヤ化し、キリスト教化し、あるいは賤民化しつつある。この毒が人類の全身をすみずみまで侵してゆく成り行きは止めがたいものにみえる」(26)
このニーチェの言葉はもう(ほぼ同時期に書かれた)エドゥアール・ドリュモンの『ユダヤ的フランス』の次のようなプロパガンダと選ぶところがない。
「ユダヤ人を他の人間たちとは違ったものにしている本質的特性とは何かをより注意深く、より真剣に考え、私たちの作業をセム人とアーリア人の民族的・生理学的・心理学的な比較から始めることにしよう。セム人とアーリア人は、はっきりと分かたれ、たがいに決定的に敵対し合う人種の人格化であって、この両者の対立が過去の世界を満たしており、将来においてさらに世界をかき乱すことになるであろう。」(27)
ニーチェの超人道徳はこうしてその壮大な意図も空しく「反ユダヤ主義神話」のうちに崩落してゆく。たとえ本来の意図は人類の進歩であり、限界の超克であるとしても、その思想がある人間集団に劣等な「固有の本質」をあてがい、それを「否定する」というしかたで戦略化される限り、その思想に未来はない。そこから帰結されるものは排他的でエゴサントリックな暴力だけである。果たして、ニーチェのテクストはのちにドイツの国家社会主義者たちのうちに熱狂的な賛美者を見いだすことになる。
とはいえ、私たちがニーチェの「超人道徳」から学びうる教訓は決して少なくない。ニーチェは、大衆社会における倫理の可能性についてのつきつめた省察から、「精神の貴族がいなければならない」という結論を導いたところまでは間違っていなかったからである。私たちがニーチェと袂を分かつのは、そのあとのことである。
私たちが希望をよせるのは、「卑俗なもの」たちへの嫌悪や排除による「斥力」をばねとして「距離」を稼ぐような相対的「貴族」ではない。さりとて、大衆から孤絶した脱俗の境地でひとりシリウスを仰ぐような絶対的「貴族」でもない。世俗の汚泥にまみれて、なお精神の貴族性を失わない人間に私たちはいかにして出会うことが出来るか、それがニーチェ以後の倫理の問いである。
【引用出典】
(21) 『善悪の彼岸』書、p.269
(22) ニーチェ、『ツァラトゥストラ』、手塚富雄訳、中央公論社、1966年、 p.64
(23) 同書、p.67
(24)『善悪の彼岸』、p.284
(25)『道徳の系譜』、p.359
(26) 同書、p.351
(27) Edouard Drumont, La France juive, Marpon & Flammarion, 1886, tome I, p.5